毎日新聞の川淵さんのコラムへの届かない返信/六川亨の日本サッカー見聞録

2019.04.05 13:00 Fri
©超ワールドサッカー
一昨日、4月3日の毎日新聞の夕刊に、「私だけの東京 2020に語り継ぐ」という連載企画に、JFA(日本サッカー協会)元会長、Jリーグ初代チェアマンで、現在は日本トップリーグ連携機構会長や東京五輪の組織委員会の評議員を務める川淵三郎氏が登場した。

64年の東京五輪では選手としてアルゼンチン戦でゴールを決め、勝利の立役者となった。残念ながら準々決勝のチェコスロバキア戦で敗れたが、そこでコーチのデットマール・クラマー氏の残した言葉が印象的だったと振り返っている。
クラマー氏の「アルゼンチン戦に勝った時は、喜びを分かち合おうとたくさんの『友達』ができただろう。でも今日、君たちのところに来る友達は少ないだろうが、彼らこそが本当の友達だよ」という言葉は、「人生に大きな影響を与え、後になって重みが増すことになります」と紹介した。

その重みとは、06年ドイツW杯で敗退すると、JFAの会長だったために自身が批判の的となり、「ああ、こういう時にそばにいてくれる人が、本当の友達だと痛感しましたね」というものだった。

正直、幾つになっても「我田引水」は変わらないと思った。サッカー専門誌時代から川淵氏には批判的な原稿を書いてきた。それは02年にJFAの会長になることでJリーグのチェアマンを譲る際に、後継者として鹿島の社長だった鈴木昌氏を指名した。それ自体は悪いことではない。
しかし、その陰では02年にこれまで川淵氏を支えてきた森健兒氏に辞任を迫る。森氏はJリーグの前身となるスペシャル・リーグ構想を打ち出し、JSL(日本サッカーリーグ)の読売クラブ、日産、全日空にはプロ選手が存在することを実行委員会に認めさせ、Jリーグ創設に向けて礎を築いた。

残念ながら社業でも重要なポストを担っていたことで、森氏はJSL総務主事の重職とJリーグ創設を川淵氏に託してその身を引いた。そして93年、Jリーグの開幕を前に33年間勤務した三菱重工を辞め、Jリーグの専務理事に専念することになる。ところが川淵チェアマンは、当時勤務していた古河産業を辞めていなかった。

「Jリーグの成功に半信半疑だったのではないでしょうか」というのが森氏の推測だ。そして辞任を迫られた際は「いくら欲しいんだ」と川淵チェアマンに言われたため、「一銭も入りません」と答えて袂を分かっている。

さらに翌03年には森氏と並んでJリーグの創設者とも言える木之本興三氏を解任した。「木之本、辞めてくれ」との言葉に、木之本氏は理由を尋ねたが、その後は一切無言だったという。

Jリーグを創設した“仲間”であるはずの2人を切ったのは、自分自身がJリーグの創設者となりたいのではないか。そこで邪魔者を除外する。さらに06年にはJFA副会長の野村尊敬氏を2階級降格の平理事にし、それまで暗黙の了解事項だった会長職2期4年を覆し、6年間務めた。野村氏は次期会長の有力候補だったため、ここでも邪魔者を除外したと思われて当然だろう。

そうした“独裁者”のような人事を批判したものの、川淵氏はドイツW杯後に「独裁者と呼ばれてもかまわない」というタイトルの本を出した。

話を06年のドイツW杯に戻そう。当時も川淵氏を批判した。というのもジーコ・ジャパンで惨敗した記者会見で、川淵氏は「オシムと言っちゃった」と日本代表の監督人事を漏らした。そのことで会見はジーコ・ジャパンからオシム・ジャパンに移った。意図しての人事漏洩だったのか詳細は分からない。

しかし問題は、そもそも代表監督は技術委員会の精査・具申を受け、当時はJFAの幹部会で議論し、理事会の承認を経て決定されるものだった。その手続きを経ずに次期監督の名前を出すことは、ルールから逸脱しているし、ここでも“独裁者”として君臨している証明ではないかと批判した。

92年のことだ。当時はJFAの強化部長だった川淵氏は、初の外国人監督となるハンス・オフトを招聘し、アメリカW杯まであと1歩に迫るまで強化に成功した。それは画期的なことだと評価している。

しかし95年に加藤久・技術委員長らがまとめた「加茂監督ではフランスW杯の出場は難しい」。そこでネルシーニョ(元東京Vで現在は柏監督)を推すというレポートに対し、年俸の改ざんをある強化委員に指示し、長沼健JFA会長に「これでは高すぎて協会として払えない」と“加茂続投”のシナリオを描いた。

加茂氏は志半ばでバトンを岡田武史監督に託し、見事W杯出場を果たした。しかし、その後も代表監督人事は「ジーコに聞いてみたら」と言ったり、「オシムと言っちゃった」と言ったりしたように、技術委員会の頭越しに代表の監督人事に介入した。

そのこと自体が問題であるのに、分かっていないので問題を提起したつもりだったのが、それは届いていなかった。三流雑誌の三流記者の提言だけに、仕方のないことかもしれない。

そして今回の新聞記事である。人は誰でも人生を美化したくなるだろう。サッカーに対する情熱は“熱血漢”と言ってもいいほど高い。それでも思うのは限りなく高い上昇志向だ。Jリーグだけでなく、Bリーグでも辣腕を発揮して東京五輪へ参加の道を開くなど功績は数多い。それだけに、引き際は潔いものにして欲しいと願わずにはいられない。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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北朝鮮戦の扱いをAFCはFIFAに丸投げ/六川亨の日本サッカー見聞録

JFAは22日、3月26日に平壌で開催が予定されていた北中米W杯アジア2次予選の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)対日本戦が中止になったと発表した。これはAFCが「北朝鮮対日本の試合は予期せぬ事情により、予定通りには開催されない」という声明を受けてのもの。 そして、すでに3月20日の時点で北朝鮮サッカー連盟からは第三国での試合開催を要望していることも伝えられていたという。北朝鮮も北朝鮮なら、AFCもAFCである。なぜもっと早くその情報を開示しなかったのか。 日本は“海外組”が多いため、移動が選手の負担になることくらい知っているだろう。案の定、裁定・決断能力に欠けるAFCは今回の試合の顛末をどうするのか、判断をFIFAに“丸投げ”した。これではAFCの存在意義が問われても仕方ないだろう。果たしてFIFAはIMD以外の日程で再試合にするのか、それとも没収試合で日本の不戦勝を認めるのか。そして直前での入国禁止に対してホームゲームの開催権の剥奪など何らかのペナルティーが北朝鮮に課せられるのかどうか。 2006年ドイツW杯アジア最終予選では、イラン戦後に観衆が暴徒化して、ペナルティーとして日本戦は中立地タイ・バンコクのスパチャラサイ国際競技場で、無観客試合として行われた(無観客試合にもかかわらず、北朝鮮の関係者と家族が試合を観戦していた)。日本からもサポーターが駆けつけ、スタジアムの外から熱心な声援を送っていた。 FIFAは日本戦の扱いをどうするのか、その最終判断と、6月にシリアとミャンマーは北朝鮮に入国できるのかどうか。こちらも興味深いところである。 さて昨日はU-23日本対U-23マリの試合が京都の亀岡にあるサンガスタジアムで開催された。開始2分に平河悠のゴールで先制したまでは良かったが、15分を過ぎる頃からマリも日本の攻撃パターンに慣れたのか反撃を開始。日本のミスに乗じて前半で同点に追いつくと、後半も2ゴールを追加して日本を一蹴した。 両チームを比較して、顕著だったのがチームの完成度の違いだ。マリはアフリカ代表とはいえ、全選手が海外組で、多くの選手がフランスやスペイン、ポルトガル、イングランドなどヨーロッパでプレーしている。身体能力の高さに加え戦術的にも洗練されていた。 もうアジア最終予選は来月に迫っているため「今さら」だが、Jリーグで出場機会に恵まれない選手を週末に集め、大学勢やJFLのチームとテストマッチを組むなどして実戦経験の場を増やしておくべきだった。マリはもちろんパリ五輪出場を決めているウクライナとの試合も「いい経験」にはなるだろうし、選手の奮起と自覚を促すかもしれない。しかし試合が終われば所属チームに戻り、選手によっては以前と同じ環境に置かれるかもしれない。 個々の選手の才能は疑う余地はないものの、2月から4月に日程が変更されたことで、“海外組”の招集は難しくなった。今年のアジアカップの時は気温が下がり肌寒かったが、4月の予想気温は最低が25度、最高が35度と猛暑のなかでの消耗戦になる。 元々は23年夏に中国で開催予定だったアジアカップが24年1~2月にカタールで開催されることになったための変更だが、2月下旬から3月上旬にかけての開催なら問題ないだろう。カタールにも事情があったかもしれないが、これも「AFCは何も考えていない」としか思えない開催時期の変更である。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.23 22:15 Sat

伊東純也のメンバー外で思い出したこと/六川亨の日本サッカー見聞録

3月14日、14時からの代表メンバー発表ということで、誰もが気になったのが背番号14の去就だろう。結論から先に言うと、森保一監督は「ひとことで言うと、彼を守るために招集しなかったという判断を、私自身がさせていただいた」と切り出した。 スタッド・ランスでは活躍しているため「彼のパフォーマンスと状況を踏まえたうえで招集は可能だと思っているし、招集したいと思っていた」ものの、日本では性加害疑惑で訴えられているため、「招集した場合に日本で彼を取り巻く環境がどういうものになるかと想像したときに、彼が落ち着いて生活できる、落ち着いてプレーできる環境にはならないことを私自身が想像している。彼が一番大切している家族、大切にしている方々への影響を考えたときに招集しない方がいまはいいのかなと思って判断した」と心情を吐露した。 もしも伊東純也が北朝鮮戦のために来日したら、テレビはもちろん新聞、雑誌などあらゆるメディアが空港や練習会場に押し寄せ、伊東のコメントを取ろうと躍起になるはずだ。しかしサッカーで注目されるならともかく、サッカー以外でのコメントは伊東も出しようがないだろう。ここは森保監督の判断を尊重したい。 今回の森保監督の“配慮”で思い出したのが、98年フランスW杯前の岡田武史監督だった。「ジョホールバルの奇跡」で日本を初のW杯へ導いた岡田監督。当時は多くのメディアが岡田監督の自宅に押しかけ、コメントを取ろうと必死になった。いわゆる「岡ちゃんフィーバー(もはや死語か)」である。 見知らぬ自称“友人”がたくさんできて、メディアでコメントを発していた。 残念ながらフランスW杯は3連敗に終わり、中山雅史が1ゴールを決めるのがやっとだった。そして、この時の「岡ちゃんフィーバー」を見たJFAの幹部会は、次の日本代表監督に日本人ではなく外国人監督を招聘することを決断した。 自国開催のW杯で、過去の例からホストカントリーは最低限グループリーグを突破しなければならない(2010年の南アは初のグループリーグ敗退)。しかし、万が一グループリーグで敗退したら、大会前の盛り上がりから一転、監督はサッカーファン・サポーターだけでなく国民からも厳しい批判を受ける可能性が高い。場合によっては日本で二度と監督はできなくなるかもしれない。 そうした危惧を抱きつつ、外国人監督だったらグループリーグで敗退しても自国へ戻れば監督業を続けられるだろう。そうした思惑もあり、Jリーグで監督経験のあるアーセン・ヴェンゲル氏にオファーを出し、彼が紹介してくれたフィリップ・トルシエ監督と契約した。結果はご存知の通りW杯はグループリーグを突破したし、99年のワールドユース(現U-20W杯)では準優勝という好成績を収めた。 その一方で、2014年のブラジルW杯後に日本代表の監督に就任したハビエル・アギーレ氏は、サラゴサ時代に八百長疑惑があったと報道されたことで、翌年2月に「契約解除」という異例のケースで日本を去った。 まだ裁判で有罪か無罪か確定していないにもかかわらず、JFAとしては「八百長」という言葉に敏感に反応したのだろう。いささか潔癖症かもしれないが、外国人監督なら日本を去ってもヨーロッパや中南米で監督業を続けられるだろうという目論見があったとしても不思議ではない。 伊東の場合は戦力として欠かせないし、日本人のため今後もフォローは必要になるが、疑惑が晴れるまで国内の試合に招集するのは森保監督も躊躇うだろう。しかし、今年の秋からは(2次予選を突破したら)最終予選が始まり、北中米W杯は2年後に迫っている。どこかのタイミングで、誰かが伊東の代表復帰を決断しなければ、日本サッカーにとって大きな損失である。 森保監督にその責を担わせるのではなく、ここは宮本恒靖JFA会長が理事会の総意として伊東の代表復帰を後押しして欲しい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.15 08:30 Fri

久しぶりに見たカンフーサッカー/六川亨の日本サッカー見聞録

3月6日に行われたACLの準々決勝第1戦で、敵地に乗り込んだ横浜F・マリノスはFWアンデルソン・ロペスとヤン・マテウスのゴールで山東泰山に2-1の勝利を収めた。試合は立ち上がりからホームの4万人を超える大観衆の後押しを受けた山東が押し気味に進めた。これに対して横浜FMもカウンターで対抗し、前半7分にはアンデルソン・ロペスがゴール前のこぼれ球を拾って貴重な先制点をゲットした。 その後も両チームは一進一退の攻防を展開したが、両チームのGKによる好セーブもあり、横浜FMが1-0とリードして前半を折り返した。 ところが後半は、時間の経過とともに山東のラフプレーが目立つようになる。MF渡辺皓太が抜群のタイミングとポジショニングでパスを出し入れして山東の焦りを誘ったことも大きかった。すると山東の選手は、抜かれそうになったらラグビーのようなタックルで突破を阻止したり、足を高く上げたりして進路を阻むなど、かつて揶揄された「カンフーサッカー」を彷彿させるプレーが続出した。 その結果、後半だけで6分にポン・シンリー、12分にジャジソン、19分ガオ・チュンイー(横浜FMは7分に渡邊泰基)がイエローカード。そして極めつけは19分にCB上島拓巳がパスを出したあと、明らかにアフターでリー・ユェンイーが身体ごと突っ込んできて上島を吹っ飛ばした。 ヨルダン人のマハドメ主審は山東の選手の抗議にも冷静さと威厳を保ち、さらに2枚目のイエローや一発レッドで試合を壊さないよう苦慮していたと思う。34分には山東のスタッフにイエローカードを出したが、ピッチに戻ろうと背中を向けた瞬間、そのスタッフは主審に向けて水をかけたのだ。幸い水は主審まで届かなかったが、気付いていれば当然レッドカードだっただろう。 この前代未聞のシーンについて、AFCはどのような見解なり判断を下すのか興味深いところである。 さらに後半アディショナルタイムの45+3分、スローインの判定をめぐって山東ベンチが猛抗議。ピッチに入ってマハドメ主審に抗議したスタッフにはレッドカードが、ボールを持っていたMF喜田拓也に詰め寄る相手スタッフから守ろうとした横浜FMのスタッフにもレッドカード。そして最後はチェ・ガンヒ監督も警告を受け、ラウンド16の川崎Fとの第2戦でもイエローだったため、累積2枚で13日の横浜FMとの試合は出場停止となった。 こうしたシーン以外にも、後半アディショナルタイムには両手でハイクロスをキャッチして無防備のGKポープ・ウィリアムに対し、攻撃参加していたCBジャジソンが遅れて体当たりを食らわせるなど、ひいき目に見ても酷いプレーが多く、ケガ人が出なくてよかったというのが正直な印象だ。果たしてこの試合を、アジアカップ決勝で笛を吹いたマー・ニン主審が担当したら、どんなジャッジで、山東の選手とスタッフはどのようなリアクションをするのか、ちょっぴり気になった次第である。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】横浜FMがアウェイで勝利も荒れに荒れた試合に…</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="ezMMp___P40";var video_start = 0;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2024.03.07 21:15 Thu

フェアだった北朝鮮の選手たち/六川亨の日本サッカー見聞録

なでしこジャパンが朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を2-1で退け、パリ五輪の出場権を獲得したのはご存知の通り。前回東京大会に続いての出場で(2大会連続6回目)、予選を突破しての出場は12年ロンドン五輪以来となる。 今回の予選は、アジア2次予選を首位通過した日本、北朝鮮、オーストラリアに加え、成績上位の2位ウズベキスタンを加えた4チームがホーム&アウェーで対戦。日本は北朝鮮との最終予選でアウェーの第1戦を0-0で引分け、ホームでの第2戦を2-1で制した(オーストラリアはウズベキスタンに2試合合計13-0で勝利。ウズベキスタンの監督は本田美登里さんだったがチームをパリに連れて行くことはできなかった)。 2016年のリオ五輪予選は日本、オーストラリア、北朝鮮、韓国、中国、ベトナムの6チームが1回戦総当たりで対戦し、上位2チームが出場権を獲得できるという「狭き門」だった。そして日本は初戦でオーストラリアに1-3で敗れると、続く韓国戦は1-1のドロー。さらに第3戦の中国戦も1-2で敗れ、オーストラリアと中国の後塵を拝したのだった(ベトナムに6-1、北朝鮮には1-0)。 2011年のドイツW杯で優勝し、12年ロンドン五輪では銀メダル、さらに15年のカナダW杯出も準優勝とリオでもメダルを期待されたなでしこジャパン(FIFAランク4位)だったが、エース澤穂希の引退に加え、世代交代が遅れたことも日本が失速した一因だった。 しかしその後のなでしこジャパンはアンダーカテゴリーの選手の台頭と活躍もあり、高倉麻子前監督と池田太監督は世代交代にも積極的に取り組んできた。 試合に関しては多くのメディアが詳報しているので割愛するが、3BKというよりは5BKの5-4-1の北朝鮮とのミラーゲームは、先に失点するわけにはいかないし、延長戦やPK戦もあるだけに当然の選択だっただろう。4-3-3でキャプテンの熊谷紗希をボランチに起用しても、無難なパスワークに終始して効果的とは言い難い。やはり彼女は最終ラインに入ってカバーリング能力を発揮した方が安心して見ていられる。 スタメンで起用された左サイドの北川ひかるは得意の左足でのキックから先制点の起点になったし、上野真実もポジションチェンジから攻撃を活性化しようと奮闘した。ただ、宮沢ひなたのスピードや、遠藤純の安定感と比べると見劣りしてしまうのは仕方のないところ。WEリーグでの活躍から彼女らを抜擢した池田監督の決断も勇気のいることだっただろう。 昨年12月3日のブラジル戦で足首を骨折して手術した宮沢はパリ五輪に間に合うのかどうか。すでに左膝前十字じん帯を損傷した猶本光と遠藤は出場が絶望的なだけに、宮沢の回復具合が気になるところだ。 最後に、試合後のリ・ユイル監督は「山下の1ミリ」や熊谷のハンドについて自ら言及することなく、「フェアプレーの指導」について質問されると次のように答えた。 「アスリートのみならず、一般的にも道徳的にも、倫理的にもルールを守ることは非常に重要です。選手たちには常日頃のトレーニングからルールを守るように徹底しているし、そのなかでフェアプレー精神を身につけ、心がけるように指導している」 そして主審のジャッジに関しても淡々と答えた。 「オーストラリア出身の主審の判断はもちろん尊重します。しかしアウェーだった今日に関しては、ホームの日本にやや偏ったような判定が少し見受けられたのではないか。ゲストである我々をもう少し尊重するような判定があってもよかったのではないか。ある意味で釈然としないものがあるなかで、我々はあくまでも主審の判断にのっとって、最後までフェアプレーを心がけました」 北朝鮮といえば、昨年10月の杭州でのアジア大会準々決勝の日本戦で判定を不服として、試合後に数人の選手が主審を追いかけ回したし、試合中の給水タイムでは日本の水を強奪したばかりか殴りかかるジェスチャーまでする選手がいた。そうしたイメージが強かっただけに、女子の選手だからか判定に抗議してイエローカードを受けたものの、男子と違って激高することなく冷静に、そしてひたむきにプレーしていた。 スピードがあり、体幹の強さは北朝鮮の伝統と言える。さらに22名の平均年齢が21・8歳(日本は24・9歳)と若いだけに、次回2027年のW杯(今年5月のFIFA総会で開催地は決定)予選でも日本のライバルとして立ちはだかるかもしれない。 そして39歳のリ・ユイル監督は理路整然と試合を振り返り、同胞へのメッセージを求められると涙するなど人情味のあふれるキャラクターの持ち主であることを知れたのも、今回の取材の収穫だった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.01 12:30 Fri

Jはアジアの審判のレベルアップに貢献してほしい/六川亨の日本サッカー見聞録

ACLのラウンド16で、甲府はアウェーこそ0-3と完敗したが、ホーム国立競技場での試合は終盤に1-1のタイスコアに追いつくなど粘りを見せた。相手の蔚山にはGKチョ・ヒョンウ、DFキム・ヨングォン、ソル・ヨンウらアジアカップでベスト4の守備陣が揃っている。にもかかわらずホームでの善戦を含め、グループリーグ突破など貴重な経験を積めたACLではなかったか。 一方、残念な結果に終わったのが川崎Fだった。山東泰山との試合では、信じられないミスからの失点もあったが、「気迫の違い」を感じた。きれいなサッカーで勝てればいいが、それをできないときにどうするか。反則を推奨するつもりはないが、「ここはイエロー覚悟でストップする」という執念で山東が上回っていたのではないか。その原因がどこにあるのか、アジアカップでの日本にも通じるような気がしてならない敗戦だった。 山東泰山の粘りは正直予想外だったが、クウェートのアハマド・アルアリ主審はうまくゲームをコントロールしたのではないだろうか(アジアカップでは日本対バーレーン戦の主審を担当)。そこで思い出したのが、19日のJリーグ開幕PRイベントに出席した野々村芳和チェアマンの「2024年の取り組み」の1つである「より多くの外国籍審判員の招へい」だった。 野々村チェアマンは、「ヨーロッパの審判だけでなく、次回のW杯やACLを制覇すると考えた時、アメリカや中東の審判を多く連れてきたいと思っている。日本人の審判が世界基準のレフェリングを体感することも重要だ」との構想を明らかにした。 Jリーグは「世界基準」を選手に肌で体感してもらうため、少々の反則では笛を吹かない。フィジカルコンタクトに慣れ、インテンシティの高いプレーを実感するためでもある。ところがアジアカップで目の当たりにした主審の基準は、「接触プレーがあるとすぐに笛を吹く」だった。 Jリーグの基準なら、そのままプレー続行となるところ、すぐに笛を吹いてプレーを止める。そしてサウジアラビアやカタールなど国内でプレーしている選手は、大げさに痛がったりする。これではワールドカップで勝てるはずもない。 だからといって日本の選手も痛がるふりをするよりは、アジア全体のレフェリング技術の向上にJFAとJリーグで貢献するようにした方が、アジアのサッカーのレベルそのものの向上につながるのではないだろうか。 アジアカップの決勝では中国のマー・ニン(馬寧)主審が笛を吹いた。日本対イラン戦も彼だったが、優柔不断な印象が強く、とても巧いとは思えなかった(こちらは個人的な印象です。イラン戦の決勝点につながるロングスローに関しては、主審よりも第1、第2の副審を務めた両オーストラリア人に問題があると思う)。逆に言うと、まだまだアジアのレフェリーは、世代交代もありアジア・レベルにとどまっているということなのかもしれない。 中東をはじめ中央アジアや東南アジア、極東を含めてレフェリーを招待し、Jリーグで笛を吹くことで切磋琢磨してレベルの向上を図れたら、それはそれで素敵なことではないだろうか。 最後に、Jリーグの開幕PRイベントでは95年5月15日の開幕戦、ヴェルディ川崎対横浜マリノスの映像が流された。ゲストで登壇した松木安太郎氏もかなり若いが、マイヤーの先制点に始まり、ラモン・ディアスの決勝点など懐かしい映像に見入った。 そして今週日曜の25日、国立競技場で東京ヴェルディ対横浜F・マリノスの開幕戦がある。30年前の映像についてトークセッションに参加したマリノスGK飯倉大樹は当時の試合について「VHS(ビデオテープ)やダイジェストですり切れるほど見ていました」と振り返った。 彼は1986年生まれのため、93年当時は小学1年生になったばかり。たぶんテレビで眩い開幕セレモニーに心をときめかせたのではないだろうか。そして、なぜダイジェストの名前が出てきたのかというと、それは表紙にあったのだろう。国立での記念すべき開幕戦だが、当時はまだフィルムの時代のため、ナイターの試合は粒子が荒れてしまい、いまのデジタルのようにクリアに再現できない。 それでも記念すべきJリーグ開幕戦のため、ディアスのゴール後の両手を広げたガッツポーズを表紙にした。一方ライバル紙であるマガジンは16日のデーゲーム、鹿島対名古屋戦でハットトリックを達成したジーコを表紙にした。もちろん、この試合を含めて全カードをテレビで観戦してから表紙を決めたのだが、インパクトの強さと多くの観客が集まったことで、ディアスを表紙に選んだ。それが31年後に、現役選手の口から「ダイジェスト」の誌名を聞くとはまったくの想定外の出来事だった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.02.22 18:15 Thu
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