日本人監督で初のアジア杯制覇に挑戦/六川亨の日本サッカー見聞録
2019.01.18 22:15 Fri
1月17日、アジアカップのグループリーグ最終戦があり、ウズベキスタン代表と対戦した日本代表は武藤、塩谷のゴールで2-1の逆転勝ちを収め、グループFを首位で突破。21日の決勝トーナメント1回戦でグループE2位のサウジアラビア代表と対戦することになった。
試合前日の記者会見で森保一監督が示唆したように、日本はスタメン10人を入れ替える前代未聞の選手起用を見せた。アジアカップでは初めての出来事であるし、過去の記憶を辿っても、2005年の東アジア選手権でジーコ監督がトライしただけだ。
そのときは初戦で北朝鮮に0-1で敗れたため、第2戦の中国戦でジーコ監督は総入れ替えを断行したが、どちらかというと懲罰的な意味での全取っ替えだった。
それに比べ、今回はサブ組のストレス解消と、決勝トーナメントに向け警告を受けた選手(権田、酒井、堂安、南野)ら主力を温存する目的があったと推測できる。結果は“吉”と出たし、むしろ過去2戦よりも落ち着いて見られるほど日本の試合運びは安定していた。
W杯に限らず、初戦の難しさと勝つことの重要性、そしてグループリーグで2連勝することのアドバンテージを改めて感じたものだ。試合後の武藤嘉紀は「こういうことがあるとチームの底上げにつながると思うし、誰が出ても変わらないことを証明できた」と胸を張ったが、逆にサウジアラビア戦ではどのようなスタメンをチョイスするのか。森保監督も今頃は頭を悩ませているのではないだろうか。
本格参戦した92年以降、日本は9大会連続9回目の出場を果たし、最多記録となる4度の優勝を飾っている。その歴史を振り返ってみると、外国人監督の歴史でもある。初優勝は92年広島大会のハンス・オフト監督、2度目は自国開催のW杯を控えた2000年のレバノン大会で、フィリップ・トルシエ監督が率いたチームは中村俊輔や名波浩を擁し、「アジア最強」と称されるほど圧倒的な強さで優勝した。
連覇のかかる2004年中国大会は前述のジーコ監督で、準々決勝のヨルダン戦ではPK戦でGK川口能活のファインプレーもあり、接戦を制しての連覇だった。そして2011年カタール大会はアルベルト・ザッケローニ監督が準決勝の韓国戦、決勝のオーストラリア戦とアジアのライバルを連破してアジアの頂点に立った。
ただ、00年まではチーム一丸となって優勝に突き進んだものの、ジーコ・ジャパンになってからは、いわゆる“国内組”と“海外組”との軋轢も生じるようになった。試合に出られない選手らはベンチに座っていても笑顔はなく、練習中もあまり喜怒哀楽を表さない。しかし、選手は監督に不満をぶつけることなく耐えてきた。
それはジーコ監督に限らず、ザッケローニ監督、そして前回のハビエル・アギーレ監督も同じたったような記憶がある。
ところが森保監督は、今大会の2試合目が終わった時点で試合に出られない理由を選手から聞かれ、しっかりと説明したという。ここらあたり、言葉の壁がないのが日本人監督のアドバンテージと言えるだろう。
アジアカップに日本人監督で臨むのは今回が2度目となる。1996年のUAE大会に臨んだ加茂周監督は、グループリーグこそ突破したものの準々決勝のクウェート戦でロングボールからの2失点により0-2と敗退した。それ以来となる日本人監督によるアジアカップ。果たして森保監督は、日本人監督としてアジアの頂点を極めることができるのか。今後の選手起用も含めて目の離せない森保ジャパンである。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
試合前日の記者会見で森保一監督が示唆したように、日本はスタメン10人を入れ替える前代未聞の選手起用を見せた。アジアカップでは初めての出来事であるし、過去の記憶を辿っても、2005年の東アジア選手権でジーコ監督がトライしただけだ。
それに比べ、今回はサブ組のストレス解消と、決勝トーナメントに向け警告を受けた選手(権田、酒井、堂安、南野)ら主力を温存する目的があったと推測できる。結果は“吉”と出たし、むしろ過去2戦よりも落ち着いて見られるほど日本の試合運びは安定していた。
W杯に限らず、初戦の難しさと勝つことの重要性、そしてグループリーグで2連勝することのアドバンテージを改めて感じたものだ。試合後の武藤嘉紀は「こういうことがあるとチームの底上げにつながると思うし、誰が出ても変わらないことを証明できた」と胸を張ったが、逆にサウジアラビア戦ではどのようなスタメンをチョイスするのか。森保監督も今頃は頭を悩ませているのではないだろうか。
そのアジアカップだが、日本が初めて本格的に参戦したのは1992年に地元広島で開催された大会からだった。それまでは予選が国内リーグと重なること、決勝大会は天皇杯と重なるといった理由から辞退することが多かった。
本格参戦した92年以降、日本は9大会連続9回目の出場を果たし、最多記録となる4度の優勝を飾っている。その歴史を振り返ってみると、外国人監督の歴史でもある。初優勝は92年広島大会のハンス・オフト監督、2度目は自国開催のW杯を控えた2000年のレバノン大会で、フィリップ・トルシエ監督が率いたチームは中村俊輔や名波浩を擁し、「アジア最強」と称されるほど圧倒的な強さで優勝した。
連覇のかかる2004年中国大会は前述のジーコ監督で、準々決勝のヨルダン戦ではPK戦でGK川口能活のファインプレーもあり、接戦を制しての連覇だった。そして2011年カタール大会はアルベルト・ザッケローニ監督が準決勝の韓国戦、決勝のオーストラリア戦とアジアのライバルを連破してアジアの頂点に立った。
ただ、00年まではチーム一丸となって優勝に突き進んだものの、ジーコ・ジャパンになってからは、いわゆる“国内組”と“海外組”との軋轢も生じるようになった。試合に出られない選手らはベンチに座っていても笑顔はなく、練習中もあまり喜怒哀楽を表さない。しかし、選手は監督に不満をぶつけることなく耐えてきた。
それはジーコ監督に限らず、ザッケローニ監督、そして前回のハビエル・アギーレ監督も同じたったような記憶がある。
ところが森保監督は、今大会の2試合目が終わった時点で試合に出られない理由を選手から聞かれ、しっかりと説明したという。ここらあたり、言葉の壁がないのが日本人監督のアドバンテージと言えるだろう。
アジアカップに日本人監督で臨むのは今回が2度目となる。1996年のUAE大会に臨んだ加茂周監督は、グループリーグこそ突破したものの準々決勝のクウェート戦でロングボールからの2失点により0-2と敗退した。それ以来となる日本人監督によるアジアカップ。果たして森保監督は、日本人監督としてアジアの頂点を極めることができるのか。今後の選手起用も含めて目の離せない森保ジャパンである。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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