【六川亨の日本サッカーの歩み】W杯の開幕を静かに待つカザン2018.06.11 23:30 Mon

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▽日本代表のキャンプ地であるカザンに来て6日が過ぎた。22時過ぎに空港についたものの、出口のゲートには中学生らしきボランティアが出迎えてくれるあたり、そろそろW杯ムードが高まりつつあるようだ。

▽ここカザンは地下鉄が1路線しかなく、市民の移動の足はもっぱら自家用車かバス、トラム、トロリーバス、乗り合いタクシーの5つ。まずはともあれIDカードをピックアップしなければ始まらない。そこで昨年のうちに予約したアパートの大家に、カザン・アレナとキャンプ地であるルビン・カザンへの行き方を聞いたところ、「アレナには33番か62番のバス、ルビン・カザンには、そこから60番のバスに乗ればいい」と教えてくれた。
▽ちなみに大家はロシア語しか話せない。「ロシアでは英語が通じない」と言われていて、携帯とポケットWiFiのSIMを買ったショップでも英語は通じなかった。そこで頼りになったのが、日本で購入した翻訳機「ポケトーク」だ。普段はWiFiで使用するが、専用のSIMを購入すると2年間はWiFi環境でなくても使用できる優れものだ。

▽バスでの移動で困るのは、降りるバス停の名前が分からないこと。そこで外の景色で確認することになる。ただ、カザン・アレナは巨大なスタジアムのため、遠目にもすぐ分かる。アレナにいたボランティアにアクレディテーション・センターを聞くと(さすがに英語が通じた)、「スタジアムの真裏にある、青くて大きなビルだ」と教えてくれた。
▽確かに大きなビルだが、巨大なスタジアムを大回りするため、徒歩で15分近くかかった。これは08年の北京五輪を取材した時にも感じたことだが、広い国土を持つ国の建造物はいずれも大きいため、目で見えていても辿り着くのにかなりの時間がかかる。アレナの外周に飾りつけるオブジェはまだ完成しておらず、作業員が黙々と仕事を進めていた。

▽IDカードは空いていたため20分ほどで取得。今度はルビン・カザンに行くため来た道を引き返すと、スタジアムをバックにレポートしている韓国のTVクルーと遭遇した。彼らは27日にここでドイツと対戦する。それまでに勝点を何点積み上げられるか。隣国のライバルであるだけに、気にかかるところだ。
▽アレナからバスで約25分、だいたいの位置はグーグルマップで調べておいたので、照明灯が見えたところで下車し、バス停にいた軍人に確認すると、ルビン・カザンで間違いはなかった。せっかく来たのだから、中を撮影したいと伝えると、5分くらい待たされ「残念だが、日本協会の広報の●●さんのレターがないと入れられない。14日からは日本協会の許可が必要になる」と断られてしまった。
▽柵越しに写真を撮り、市内へ戻る方向のバス停の上にある表示板を見ると33番と62番がある。待つこと10分、33番のバスで無事にアパートへ帰宅できた。帰りがけに近くのハイパーマーケットという、これまた巨大なショッピングセンターをのぞいて見た。スポーツショップには大会のロゴをあしらったTシャツやバッグ、大会マスコットのザギトワ(フィギュアスケートの選手)、ならぬザビワカ(オオカミ)のグッズなどが売られていた。

▽街が盛り上がるのは16日のフランス対オーストラリア戦が始まってからだろう。その前に、13日の夜には日本代表がインスブルックから移動してくる。サムライ・ブルーにとっても、取材するメディアにとっても、ロシアW杯の始まりだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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今年の殿堂掲額者のプロフィール1/六川亨の日本サッカーの歩み

今年もまた、「日本サッカー殿堂」の掲額者を選出する投票の依頼が来た。 ここで改めて選考基準を紹介しておこう。有資格者は選考時に満60歳以上(物故者はのぞく)で、1)JSL(日本サッカーリーグ)1部で通算200試合以上の出場。2)JSL1部とJ1リーグで通算300試合以上出場。3)J1リーグ通算400試合以上の出場。4)日本代表として国際Aマッチ50試合以上の出場。5)全国の運動記者クラブが選出する年間最優秀選手。6)Jリーグ最優秀選手および功労者表彰選手のいずれかを満たした選手だ。 そして殿堂委員会の作成した候補者名簿が5名以内の場合は1名、6名以上の場合は2名を投票で決定する。その際に、原則として投票総数の75%以上の得票者を殿堂委員会が確認して理事会へ報告して決定するが、75%未満で5%以上の候補者は、翌年の投票のための候補者名簿に掲載され、次回の投票でも5%以上の得票があれば、さらに次々回の投票のための候補者名簿に掲載され、初回掲載時から通算5回までは同様の措置が取られる。 今回は4名の候補者で投票が実施されるが、今年8月で66歳を迎える碓井博行氏は17年から継続しての候補者名簿への掲載である。その他の3名、金田喜稔氏、木村和司氏、原博実氏は今年の誕生日で60歳を迎える新規の候補者だ。 残念なのは昨年の候補者だった松木安太郎氏である。規約で得票が5%未満だったため、今回の候補者名簿から削除され、それ以降の投票のための候補者名簿にも掲載されることはなくなった。昨年は加藤久氏とラモス瑠偉氏という強力なライバル2人がいたため、得票率を高めることはできなかったのだろう。 それでは次に、各候補者のプロフィールを紹介しよう。まず碓井氏だが、高校サッカーの名門・藤枝東高から早稲田大学に進学したストライカーで、当時としては身長178センチ、体重73キロと大型にもかかわらず柔軟性とテクニックを合わせ持ったストライカーでもあった。多くのストライカーが“釜本2世"と呼ばれたが、今となっては碓井氏がその名に一番ふさわしいかもしれない。 高校1年で日本ユース代表に選出され、アジアユース大会には1970年の第12回大会以降4年連続で出場した。これは歴代でも唯一の記録で、第15回大会では初の決勝進出に貢献(準優勝)。藤枝東高では全国高校選手権、インターハイと国体で優勝と3冠を達成した。 早稲田大では2年の時に日本代表にデビューし、関東大学リーグ優勝2回、全日本大学選手権優勝2回とチームを牽引。卒業後は日立(現柏レイソル)で活躍し、JSLカップ優勝と1980年と82年にはJSL得点王とベストイレブンにも輝く。87年に現役を引退するまでJSL1部で200試合出場、85得点。この85得点は釜本氏の202点(251試合)に次ぐ歴代2位の記録としていまも残っている。 残る3名の候補者のプロフィールについては来週のコラムで紹介したい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.05.20 19:00 Mon
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久保建英の異才/六川亨の日本サッカーの歩み

先のJ1リーグ、FC東京vs磐田は、久保建英の今シーズンJ1初ゴールでFC東京が1-0の勝利を収め、開幕からの無敗記録を11に伸ばした。右CKからのこぼれ球を久保は鮮やかな左足ボレーで決め、過去4試合ノーゴールに封じこまれていたGKカミンスキーの牙城を破った。 久保のスーパーゴールはその後の報道でも紹介されていたのでここまでにして、彼が凄かったのはゴールだけでなく、そのパスセンスだ。 前半15分にディエゴ・オリヴェイラへ、密集地帯にもかかわらず針の穴を通すようなピンポイントのパスでシュートを演出した。後半28分には中央でボールをキープしつつ、右サイドのスペースにスルーパスで室屋成の攻撃参加を引き出すパス。あまりの意外性にスタンドはどよめいた。残念ながら球足が強く室屋は追いつけなかったが、このパスを見て思い出したのが中田英寿だった。 若かりし頃の中田――98年フランスW杯当時は、味方が間に合わないような強めのパスを出し、それに追いつけないと味方選手を非難した。たぶん“世界基準”では、緩いパスでは相手にカットされるので、パススピードの重要性を早くから認識していたのだろう。足下から足下への緩いパスではJリーグでは通用しても、世界を相手にしては通用しない。そんな思いが中田にはあったのではないだろうか。 似たような思いは80年代にもあった。選手はピッチで戦っているため“1次元”の世界である。しかし記者席で取材していると、上から俯瞰して見られるため“3次元”の視点になる。そこでは、「この状況では、ここにパスを出した方が守備も手薄なため効果的」なのに、違う選択をする選手もいた。 現役を引退したばかりの柱谷幸一氏は、かつての国立競技場の記者席で毎日新聞のコラムニストとして取材した時に、「上から見るとこんなにも(試合の状況が)わかるのですね」と驚いていた。 1次元と3次元の視点の違いである。ところが、3次元の視点で見ていても、「えっ、そんな選択肢があるの?」とか「そこにパスを出すの?」と記者席から見ていて驚かされた選手に初めて遭遇した。それが木村和司だった。 口べたなため、自身のプレーの解説はあまり得意ではない。まさに本能のままにプレーした稀代の名プレーメーカーだろう。 彼の系譜は、その後の日本代表ではラモス瑠偉、名波浩、小野伸二、中村俊輔と引き継がれ、フィジカルを重視される現代サッカーでは本田圭佑が継承者となった。 その次は誰かというと、柴崎岳なのか判断が難しいところに久保という異才が登場した。過去のゲームメーカーとはポジションが違うものの、間違いなく日本サッカーの将来を担う逸材でなないだろうか。 彼のプレーを見られる幸せを、できるだけ長く楽しみたいものでもある。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.05.14 10:30 Tue
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平成時代に書いたコラムは1000本越え/六川亨の日本サッカーの歩み

平成もあと1日で終わり、5月1日からは令和の時代を迎える。そこで手前味噌で恐縮だが、当コラムがスタートしたのはサッカーダイジェストを辞めた01年(平成13年)3月のことだった。当時の超ワールドサッカー編集長だった是永大輔氏(現アルビレックス新潟代表取締役社長)から、「何でも好きなことを書いてください」というオファーを受けてスタートした。 以来18年間、年末年始も「モバイルサイトに休日はありません」ということで一度も欠かさずコラムを書いてきた。年間約52本だから、単純計算でも936本。さらに16年からは木曜にもコラムを書くようになり、こちらは約156本。合計すると1092本の原稿を書いてきたことになる。 長い間、お世話になった読者の皆さんには改めて感謝の意を捧げたい。 さて平成と言えば、日本サッカーが飛躍的な成長を遂げた31年間と言えるだろう。昭和天皇が崩御した89年(平成元年)は、翌年イタリアで開催されるW杯のアジア1次予選で横山ジャパンはあっけなく敗退した。当時は世界陸上を翌年に控えて国立競技場が改修のため使用できず、インドネシア戦は西が丘サッカー場(現味の素フィールド西が丘)で行われた。 その事情を知らないインドネシアの監督は、「こんな粗末な会場で試合をさせられた」と憤慨していた。 横山謙三監督は89年6月25日の北朝鮮戦に敗れてから翌年9月のバングラデシュ戦で勝利をあげるまでの丸々1年間、15試合勝ち無し(3分け12杯)の惨憺たる成績。ファンから「横山辞めろコール」が起きたのも当然で、いまならとっくに解任されていただろう。逆に言うと、それだけ監督の人材が不足していたことの証明でもあった(加茂監督待望論はあった)。 そんな流れが変わったのは平成2年に日本サッカーにプロ化の機運が高まったことだ。ラモスが日本国籍を取得し、ブラジルからは三浦知良が帰国して読売クラブに加入した。帰国したカズは左ウイングとして活躍したものの、日本ではゴールを決めないとFWは評価されないことを痛感し、その後はストライカーとして覚醒する。 そして92年(平成4年)には日本代表の監督に初めて外国人であるハンス・オフトが就任。同年8月、北京で開催されたダイナスティー杯で初優勝を果たすと、11月の広島でのアジア杯でも初優勝を果たした。さらに93年5月からはJリーグが華々しくスタートする。 サッカーマガジンとサッカーダイジェストは週刊誌となり、駅の売店やコンビニで販売されるなど、昭和の時代には考えられない大ブームがサッカー界に到来した。 残念ながらオフト監督は“ドーハの悲劇"により悲願だったW杯初出場を逃してしまう。しかし96年(平成8年)には西野朗監督が率いるU-23日本代表が28年ぶりの五輪出場を果たし、97年には岡田武史監督が日本を初のW杯に導いた。 以来、五輪とW杯への連続出場を果たして平成の時代は終わりを告げる。令和2年(20年)には56年ぶり2度目となる東京五輪が開催され、ホスト国である日本は男女ともメダル獲得を期待されている。果たして令和の時代の日本サッカーはどのような成長を遂げるのだろうか。 カズでプロ化の幕を開けた日本サッカーには、その後もヒデ、シュンスケ、ケイスケ、シンジと“顔"になる選手が続き、それはショウヤに受け継がれている。彼らに続くであろうタケフサら東京五輪の世代には将来が楽しみな選手が多いだけに、きっと令和の時代を美しく彩ってくれるのではないかと期待している。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.29 16:00 Mon
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なでしこリーグのプロ化は成功するのか/六川亨の日本サッカーの歩み

JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は、なでしこリーグのプロ化について「もう一段階上に行こうと思うと、プロ化というところを通らないといけないと思うし、具体的に話し合っているのは事実で、近いうちに結論を出したい」と言及したそうだ。 すでに先月26日の理事会で女子担当の佐々木則夫理事(元なでしこジャパン監督)がプロ化の必要性を訴え、20年東京五輪後の21年か22年のプロ化を目指し、早ければ来月5月の理事会で承認を得られればプロ化に舵を切るという。 まだプロ化への具体的な道筋は見えていないので、軽々な発言は控えるべきだろうが、「本当にプロ化してやっていけるのだろうか」というのが正直な感想だ。 Jリーグを例に取るまでもなく、プロ化のためには収入源を確保しなければ成立しない。その3本柱として「入場料収入」、「スポンサーの確保」、「テレビ放映権の獲得」が上げられる。さらにJリーグの場合は、ビッグクラブになればなるほど母体企業である「親会社からの補填」も欠かせない。 しかし、なでしこジャパンがW杯で初優勝した11年の1試合あたりの平均入場者数は2千796人だった。その実数を10倍にしないとプロ化は難しいだろう。JリーグはDAZNのおかげで放映権収入が飛躍的に膨らんだが、なでしこリーグが新たに巨額な放映権を獲得できるのか。親会社からの補填が可能なのはINAC神戸レオネッサくらいではないだろうか――簡単に考えても問題山積だ。 かつて日本女子サッカーリーグには「プロ」に近いチームが存在したことがある。91年に女子のW杯新設と、90年アジア大会で女子サッカーが正式種目になることを受け、89年に女子のリーグ戦が新設された。94年にJリーグに合わせLリーグと改名されたが、90年に創部された日興證券ドリームレディースは完全なプロチームだった。 初代の日本女子代表監督だった鈴木良平氏を招聘した同チームは、鈴木監督の要望した「専用グラウンドとクラブハウスの建設、選手寮の借り上げ、選手が仕事をせずサッカーに専念できる環境」を実現。リンダ・メダレン、グン・ニイボルグらノルウェー女子代表選手を獲得するなど強化に力を入れ、96年から3連覇を果たすなどLリーグを牽引した。 しかし母体企業の日興證券が証券取引法違反に問われた98年中に廃部を決定。さらにバブル経済の崩壊からフジタサッカークラブも廃部。99年1月の全日本女子選手権が終了すると、黎明期の女子サッカーを牽引してきた鈴与清水FCと、シロキFCがリーグからの脱退を表明し、その後もプリマハムや松下電器らチームスポンサーの撤退によりクラブチーム化せざるを得ないチームが相次いだ。 そんな危機的な状況にもかかわらず、関係者の熱意と努力によってLリーグは命脈をつないできた。そして転機となったのが04年にJFAのキャプテンズ・ミッションに「女子サッカーの活性化」が盛り込まれたことだ。4月に行われたアテネ五輪アジア予選での活躍も追い風となった。五輪本大会では「なでしこジャパン」と命名された日本女子代表がベスト8に進出。9月スタートのリーグ戦は「なでしこリーグ」と改められて、紆余曲折を経ながら今日まで続いている。 その後は11年ドイツW杯での優勝、12年ロンドン五輪での銀メダル獲得と栄華を極めたのは周知の事実。しかし澤穂希の引退と主力選手の高齢化で16年ブラジル五輪の出場権を逃してしまった。現在の高倉麻子監督はチームの若返りを図って今夏のフランスW杯に挑むが、けして平坦な道のりではない。来夏の東京五輪ではメダル獲得の期待もかかる「なでしこジャパン」であるが、本大会をはじめ、その先のプロ化にも茨の道が待っているような気がしてならない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.22 19:00 Mon
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類い希な久保のパスセンス/六川亨の日本サッカーの歩み

久保建英については、あらためて紹介する必要はないだろう。“和製メッシ”と言われ、日本代表の各年代でも飛び級で招集され、今年5月にポーランドで開催されるU-20W杯の主力の選手だし、来夏の東京五輪でも活躍が期待される逸材だ。 これまでも10代でJリーグにデビューして脚光を浴びた選手は数多い。例えば香川は密集地帯でもDFの足の届かないところにトラップし、マークをすり抜けてゴールを量産した。井手口や堂安も似たタイプと言え、ドリブル突破を武器に海外移籍を果たした。 もちろん久保も、今シーズン復帰したFC東京では、右サイドのゴールライン上から2人のマークをすり抜けてシュートを放つなど輝いている。4月10日のルヴァン杯・鳥栖戦では、右サイドの難しい角度からのFKを直接決め、シーズン初ゴールでチームを勝利に導いた。 そして14日のJ1リーグ鹿島戦である。ゴールこそ決められなかったが、3ゴールすべてに絡む卓越したパスセンスを披露して、あらためてその才能の高さを示し、香川や堂安とのレベルの違いを証明したと言える。 前半4分、橋本からのタテパスを受けると、体をターンさせながら鹿島の名ボランチであるレオシルバのアタックを封じ、すかさず右サイドの室屋へ絶妙のスルーパス。その波状攻撃からFC東京は永井のヘッドで先制点をもぎ取った。 さらに前半16分と29分には、自陣ゴール前から絶妙なループパスでディエゴオリベイラの2ゴールを演出する。久保自身は「2点目は狙い通りで永井さんがうまくトラップしてくれて、そこからの流れで連係は良かったですね。3点目はアバウトでした。すべてディエゴがやっているので、どうこうはないですね」と話すにとどめた。 確かに2点目は味方のクリアを拾うと前を向き、前線で待つ永井にピンポイントのパスを出し、永井の独走からディエゴオリベイラのゴールに結びついた。久保にとって狙い通りのプレーだったのだろう。 しかし凄いのは「アバウト」に出した3点目につながるパスだ。鹿島のパスミスを自陣ゴール前で受けると、胸トラップからそのまま左足アウトサイドで前線に送る。鹿島CBのクリアミスもありディエゴオリベイラは独走して3点目を決めたが、アバウトでも敵と味方の位置関係を把握してパスを出したセンスは、教えようとしても教えられるものではない。 普通ならトラップして前を向いてからパスを出すか、ドリブルするのが常道だろう。しかし、それでは鹿島に守備陣形を整える時間を与えてしまう。2タッチのプレーが鹿島の若いCB2人をパニックに陥れたことは想像に難くない。 これまでにも東京Vの森本を始め、ストライカーとして若い年代から才能を発揮した選手はいた。香川や柿谷、堂安らだ。しかし久保は、ドリブル突破だけでなく類い希なパスセンスも鹿島戦で披露してみせた。 すでに海外の複数のクラブから、18歳になる6月を前に照会が来ているという。まだ発展途上の選手だけに、どこまでその才能を伸ばすのか。その成長過程をJリーグで見たい気持ちと、海外のビッグクラブで活躍する姿を見たいという気持ちで揺れ動いているのは私だけではないだろう。 U-20日本代表での活躍はもちろんのこと、6月のキリンカップでの招集も楽しみな久保の成長である。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.16 18:00 Tue
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