1993年のエポック③U-17W杯日本大会/六川亨の日本サッカーの歩み
2020.06.02 17:00 Tue
1993年、ソロモン諸島ガダルカナル島でのU-17W杯オセアニア最終予選を取材したことは先週のコラムで紹介した。当時、現地で出会ったソロモン諸島の監督は青年海外協力隊で現地に赴任していた日本人の渡邊和典(わたなべ かずのり)さんだった。
彼とは現地で別れて以来音信不通だったが、ふとしたことで同業者が彼と知り合いになり、携帯の番号だけは聞いていた。しかし電話をかけることも、メールを送ることもしないまま27年が過ぎた。帰国した93年はJリーグがスタートするなど慌ただしい日々を過ごしたこともあるが、それは言い訳に過ぎない。
彼の消息を知った時は、時が経っていたため僕のことを覚えてくれているか臆病になっていたのが正直なところだ。
それが、先週初めにコラムで彼を紹介したところ、木曜日の28日にメッセンジャーで連絡が来た。「1993年のエポック読みました!なんだかとても懐かしくなり、連絡した次第です。お元気ですか?」という文面だった。
すぐに電話して、27年ぶりに近況を聞いた。「こんな再会もあるのだな」と、改めてネット社会の影響力を実感した。僕の書いた原稿を、どこで誰が読んでいるのか、そしてつながっているのか、楽しくもあり、身の引き締まる思いでもある。
そして日本代表である。監督は国見高校の名将である小嶺忠敏さん。そしてコーチは東京ヴェルディの小見幸隆さんという異色の組み合わせだった。というのも当時のメンバーは松田直樹(前橋育英高)、中田英寿(韮崎高)、船越優蔵(国見高)ら高校生と、宮本恒靖(G大阪ユース)、財前宣之(読売クラブ。中田ら誰もが認めた天才だった)らクラブ育ちの選手の混成チームだったため、監督は「教育的な配慮」から高校の監督、そしてコーチにはクラブ出身という指導体制になった。
日本はグループAで1勝1分け1敗で2位となり決勝トーナメントに進出する。1勝もできずグループAで最下位に終わったのはイタリアだったが、この時のチームにはジャンルイジ・ブッフォン、フランチェスコ・ココ、フランチェスコ・トッティらがいた。
残念ながら日本は準々決勝で優勝したナイジェリアに1-2で敗れてしまう。準優勝はグループリーグで日本と同じA組のガーナで、後にバイエルン・ミュンヘンなどで活躍したサミュエル・クフォーがチームを牽引した。そして優勝したナイジェリアにはヌワンコ・カヌ、セレステン・ババヤロら3年後のアトランタ五輪で金メダルを獲得するメンバーが揃っていた。
大会後、カヌらナイジェリアの選手は、誕生したばかりのJリーグの“あるチーム”に売り込みをかけたが、当時はアフリカのティーンエイジャーよりも、ヨーロッパで実績を残したベテラン選手の方が重宝されたため、移籍は実現しなかった。たぶん格安で獲得できたはずだが、当時のJリーグの異常な盛り上がり方を考えれば仕方がなかったかもしれない。
3年後のアトランタ五輪で、28年ぶりに出場した日本は初戦でブラジルを倒し「マイアミの奇跡」を演出する。しかし1勝1分け1敗ながら得失点差でグループリーグ3位になり敗退を余儀なくされた。グループリーグで日本から勝利を奪ったナイジェリアが金メダル、日本に敗れたブラジルが銅メダルを獲得した。
2大会とも、グループリーグの対戦相手が違っていれば、結果も変わっていたのではないかと当時は思ったものだ。それもW杯に出たことのない僻みだったかもしれない。そして、メディアもファンもこの大会のことはすぐに忘れたと記憶している。なぜなら1週間後には、オフト・ジャパンが初のW杯出場に向けてスペイン合宿をスタートしたからだった。(以下、次週のアメリカW杯アジア最終予選に続く)
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
彼とは現地で別れて以来音信不通だったが、ふとしたことで同業者が彼と知り合いになり、携帯の番号だけは聞いていた。しかし電話をかけることも、メールを送ることもしないまま27年が過ぎた。帰国した93年はJリーグがスタートするなど慌ただしい日々を過ごしたこともあるが、それは言い訳に過ぎない。
それが、先週初めにコラムで彼を紹介したところ、木曜日の28日にメッセンジャーで連絡が来た。「1993年のエポック読みました!なんだかとても懐かしくなり、連絡した次第です。お元気ですか?」という文面だった。
すぐに電話して、27年ぶりに近況を聞いた。「こんな再会もあるのだな」と、改めてネット社会の影響力を実感した。僕の書いた原稿を、どこで誰が読んでいるのか、そしてつながっているのか、楽しくもあり、身の引き締まる思いでもある。
さて本題に戻ろう。93年、日本で初めて開催されたU-17W杯は8月21日から9月4日にかけて日本各地で開催された。最終予選を取材したオーストラリアは選手とも親しくなったので会いたかったが、試合は関西が多かったため一度も取材に行けなかったのが残念だった。
そして日本代表である。監督は国見高校の名将である小嶺忠敏さん。そしてコーチは東京ヴェルディの小見幸隆さんという異色の組み合わせだった。というのも当時のメンバーは松田直樹(前橋育英高)、中田英寿(韮崎高)、船越優蔵(国見高)ら高校生と、宮本恒靖(G大阪ユース)、財前宣之(読売クラブ。中田ら誰もが認めた天才だった)らクラブ育ちの選手の混成チームだったため、監督は「教育的な配慮」から高校の監督、そしてコーチにはクラブ出身という指導体制になった。
日本はグループAで1勝1分け1敗で2位となり決勝トーナメントに進出する。1勝もできずグループAで最下位に終わったのはイタリアだったが、この時のチームにはジャンルイジ・ブッフォン、フランチェスコ・ココ、フランチェスコ・トッティらがいた。
残念ながら日本は準々決勝で優勝したナイジェリアに1-2で敗れてしまう。準優勝はグループリーグで日本と同じA組のガーナで、後にバイエルン・ミュンヘンなどで活躍したサミュエル・クフォーがチームを牽引した。そして優勝したナイジェリアにはヌワンコ・カヌ、セレステン・ババヤロら3年後のアトランタ五輪で金メダルを獲得するメンバーが揃っていた。
大会後、カヌらナイジェリアの選手は、誕生したばかりのJリーグの“あるチーム”に売り込みをかけたが、当時はアフリカのティーンエイジャーよりも、ヨーロッパで実績を残したベテラン選手の方が重宝されたため、移籍は実現しなかった。たぶん格安で獲得できたはずだが、当時のJリーグの異常な盛り上がり方を考えれば仕方がなかったかもしれない。
3年後のアトランタ五輪で、28年ぶりに出場した日本は初戦でブラジルを倒し「マイアミの奇跡」を演出する。しかし1勝1分け1敗ながら得失点差でグループリーグ3位になり敗退を余儀なくされた。グループリーグで日本から勝利を奪ったナイジェリアが金メダル、日本に敗れたブラジルが銅メダルを獲得した。
2大会とも、グループリーグの対戦相手が違っていれば、結果も変わっていたのではないかと当時は思ったものだ。それもW杯に出たことのない僻みだったかもしれない。そして、メディアもファンもこの大会のことはすぐに忘れたと記憶している。なぜなら1週間後には、オフト・ジャパンが初のW杯出場に向けてスペイン合宿をスタートしたからだった。(以下、次週のアメリカW杯アジア最終予選に続く)
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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