湘南の前身とセルジオ越後/六川亨の日本サッカーの歩み
2018.10.29 17:30 Mon
▽先週末の10月27日、埼玉スタジアムで行われたルヴァン杯決勝は、初の決勝戦進出を果たした湘南が、元U-20日本代表でもある杉岡大暉のミドルシュートによる決勝点で横浜FMを1-0で下し、初優勝を遂げた。湘南にとっては1994年の天皇杯優勝(当時は平塚)に次ぎ2個目のタイトル獲得で、実に24年ぶりの快挙達成でもあった。
▽湘南の1-0リードで迎えたハーフタイム、トイレに並んでいると目の前の湘南サポーターのレプリカユニホームの襟には「50anniversary」とプリントされているのに気がついた。50年ということは、チームが誕生したのはメキシコ五輪の開催された1968年ということになる。
▽湘南(平塚)の前身は、JSL(日本サッカーリーグ)優勝3回と2度の天皇杯優勝を果たしたフジタ工業であったことはご存じの方も多いだろう。1994年にJリーグへの昇格を果たしたものの、1999年に親会社であるフジタ(株)が撤退を表明したためJ2に降格するなど苦労を重ねてきた。ようやく2001年、総合型スポーツクラブとして再スタートを切り、今日に至っている。
▽そのフジタ工業サッカー部の前身が藤和不動産サッカー部だった。JSL入りを目指して今から50年前の1968年、栃木県で産声をあげた。チームの育成に、東洋工業でJSL4連覇を達成し、後に日本代表の監督を務めた石井義信氏を招聘。1971年に翌年からのJSL1部(この年にJSL2部もスタート)昇格を果たすと、新たに下村幸男氏を監督に迎えたが、前期は2分け5敗(当時のリーグは8チーム)と最下位に沈んだ。
▽そんなチームを救ったのが、ブラジルからやって来た日系二世でJSL初となる「元プロ選手」のセルジオ越後だった。来日当時27歳のセルジオは、後期に2勝をあげるなどチームに貢献したが、驚かされたのはブラジル仕込みのテクニックだった。
▽背後への浮き球でも、振り向きざまに足下に収まるのを目の当たりにし、「頭の後ろにも目があるのではないか」と中学生ながら驚いたものだ。当時のフェイントは、タイミングを図ってタテへ抜け出るか、「マシューズ・フェイント」が全盛だったが、セルジオは足の裏を使った引き技など、これまで見たことのないフェイントの数々でマーカーを翻弄した。特にエラシコはセルジオの得意技で、彼自身はボールが伸び縮みするように動くので「ゴムのフェイント」と名付けていた(親友のリベリーノにこのフェイントを教える代わりに、リベリーノからは「またぎフェイント」のコツを教えてもらった)。
▽試合の勝ち負けより、彼のプレーを見るだけでスタジアムに足を運ぶ価値があった。残念ながら日本での現役生活は2年でピリオドを打つことになるが、1973年はチームの4位躍進に貢献。引退後はブラジルからカルバリオに藤和不動産サッカー部入りを進めるなど、フジタ工業サッカー部の全盛時代の礎を築いた。
▽そして1975年のシーズン途中には本拠地を栃木から東京に移すと、チーム名もフジタ工業サッカー部に改称。翌76年に札幌大からマリーニョを迎えると、カルバリオとのコンビで77年は18試合で64点という最多ゴール記録(当時)を作ってJSL1部で初優勝を果たした。
▽その後、1993年にJFL1部優勝を果たし、Jリーグ正会員加盟が決定すると、チーム名を「ベルマーレ平塚」に改称。94年にJリーグへ昇格すると天皇杯優勝と平塚としての初タイトルを獲得するなど、新たな1歩を踏み出して今日に至っているのは周知の事実である。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
▽湘南の1-0リードで迎えたハーフタイム、トイレに並んでいると目の前の湘南サポーターのレプリカユニホームの襟には「50anniversary」とプリントされているのに気がついた。50年ということは、チームが誕生したのはメキシコ五輪の開催された1968年ということになる。
▽そのフジタ工業サッカー部の前身が藤和不動産サッカー部だった。JSL入りを目指して今から50年前の1968年、栃木県で産声をあげた。チームの育成に、東洋工業でJSL4連覇を達成し、後に日本代表の監督を務めた石井義信氏を招聘。1971年に翌年からのJSL1部(この年にJSL2部もスタート)昇格を果たすと、新たに下村幸男氏を監督に迎えたが、前期は2分け5敗(当時のリーグは8チーム)と最下位に沈んだ。
▽そんなチームを救ったのが、ブラジルからやって来た日系二世でJSL初となる「元プロ選手」のセルジオ越後だった。来日当時27歳のセルジオは、後期に2勝をあげるなどチームに貢献したが、驚かされたのはブラジル仕込みのテクニックだった。
▽当時のJSLは、東京では国立競技場や西が丘サッカー場、駒沢陸上競技場などで開催された。今とは比べものにならないものの、とりあえず芝生でプレーすることができた。日本人選手のトラップは、グラウンダーならともかく、高く上がったボールは1メートルほど身体から離れるのが当たり前。しかしセルジオは足に吸い付くようにピタリと止まった。
▽背後への浮き球でも、振り向きざまに足下に収まるのを目の当たりにし、「頭の後ろにも目があるのではないか」と中学生ながら驚いたものだ。当時のフェイントは、タイミングを図ってタテへ抜け出るか、「マシューズ・フェイント」が全盛だったが、セルジオは足の裏を使った引き技など、これまで見たことのないフェイントの数々でマーカーを翻弄した。特にエラシコはセルジオの得意技で、彼自身はボールが伸び縮みするように動くので「ゴムのフェイント」と名付けていた(親友のリベリーノにこのフェイントを教える代わりに、リベリーノからは「またぎフェイント」のコツを教えてもらった)。
▽試合の勝ち負けより、彼のプレーを見るだけでスタジアムに足を運ぶ価値があった。残念ながら日本での現役生活は2年でピリオドを打つことになるが、1973年はチームの4位躍進に貢献。引退後はブラジルからカルバリオに藤和不動産サッカー部入りを進めるなど、フジタ工業サッカー部の全盛時代の礎を築いた。
▽そして1975年のシーズン途中には本拠地を栃木から東京に移すと、チーム名もフジタ工業サッカー部に改称。翌76年に札幌大からマリーニョを迎えると、カルバリオとのコンビで77年は18試合で64点という最多ゴール記録(当時)を作ってJSL1部で初優勝を果たした。
▽その後、1993年にJFL1部優勝を果たし、Jリーグ正会員加盟が決定すると、チーム名を「ベルマーレ平塚」に改称。94年にJリーグへ昇格すると天皇杯優勝と平塚としての初タイトルを獲得するなど、新たな1歩を踏み出して今日に至っているのは周知の事実である。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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