繰り返される日本代表の世代交代【六川亨の日本サッカーの歩み】
2018.09.11 11:00 Tue
▽9月10日、キリンチャレンジカップに臨む日本代表の森保一監督が、コスタリカ代表戦を控えて公式会見を行った。森保監督はコスタリカ戦について、「韓国代表戦(7日)から監督が代わり、システムも変わったので柔軟に対応したい。臨機応変に対応したい」とアジア大会でも選手に求めた“対応力"を強調。その上で、「攻撃的にやりたいが、試合の流れもあり、守るときは守り、速い攻めができるときは速く攻める」とチームコンセプトを説明した。
▽北海道地震でチリ代表戦が中止となり、練習も十分とは言えない。そうした状況での初陣だけに、チームとしてどこまで機能するか、さらに“個の力"にしても代表の経験が浅い選手が多いだけに、どこまで発揮できるのか未知数の部分が多い。
▽今回招集された22人(杉本は右足の負傷で離脱)のうち、二桁出場は槙野智章(33)、遠藤航(12)、小林悠(13)、浅野拓磨(17)の4人だけ。初招集は佐々木翔、冨安健洋、天野純、守田英正、伊藤達哉、堂安律の6人。さらに過去GKトレーニングで招集されたシュミット・ダニエルは1試合も出場経験がない。
▽これだけフレッシュなメンバーになったのは、今回は海外組の招集を見送ったからだ。さらに2020年東京五輪を見据えて呼ばれたメンバーもいる。このため来年1月にUAEで開催されるアジアカップの予備軍と言えるだろう。
▽長らくキャプテンとして日本を牽引してきた長谷部誠を始め、本田圭佑、酒井高徳らが代表からの引退を表明したことで、若返りと世代交代も森保監督に課せられた大きなテーマである。ただ、こうしたケースは今回が初めてではない。
▽彼らに代わって代表入りしたのが、DF井原正巳(筑波大)、信藤克義(マツダ)、望月聡(日本鋼管)、柱谷哲二(日産)、FW平川弘(日産)、浅岡朝泰(日本鋼管)、前田治(東海大)、菅野裕二(トヨタ)、草木克洋(ヤンマー)、だった。当時大学生だった井原と、国士舘大を卒業後、日産に入ったばかりの柱谷は、その後はオフト・ジャパン、ファルカン・ジャパン、加茂ジャパンでも主力として活躍し、井原は日本のW杯初出場に貢献した。
▽横山ジャパンは、それまで4-3-3や4-4-2が主流だったチームに、当時としては斬新だったウイングバックを両サイドに置く3-5-2を採用した。しかし機能したとは言えず、90年イタリアW杯予選は1次リーグで敗退するなど好成績を残すことはできず、91年の日韓定期戦での敗戦により監督を退いた。
▽彼に代わり日本の指揮を執ったのが初の外国人監督であるハンス・オフトだった。オフトは92年のアジアカップで初優勝を果たしたが、W杯アメリカ予選は最終のイラク戦でのドロー、俗に言う「ドーハの悲劇」でW杯出場を逃して監督を退任した。
▽ドーハ組からはラモス瑠偉、都並敏史、武田修宏(V川崎)、中山雅史(磐田)らが代表から外れた。彼らの代わりに94年から指揮を執ったファルカン・ジャパンに呼ばれたのが、当時躍進著しい平塚の名塚善寛、岩本輝雄と台頭してきた若手の前園真聖(横浜F)、小倉隆史(名古屋)だったが、ケガなどもあり長く活躍することはできなかった。
▽果たして今回招集されたメンバーでカタールにたどり着くのは誰なのか。その競争の第一歩となるのが明日のコスタリカ戦でもある。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
▽北海道地震でチリ代表戦が中止となり、練習も十分とは言えない。そうした状況での初陣だけに、チームとしてどこまで機能するか、さらに“個の力"にしても代表の経験が浅い選手が多いだけに、どこまで発揮できるのか未知数の部分が多い。
▽これだけフレッシュなメンバーになったのは、今回は海外組の招集を見送ったからだ。さらに2020年東京五輪を見据えて呼ばれたメンバーもいる。このため来年1月にUAEで開催されるアジアカップの予備軍と言えるだろう。
▽長らくキャプテンとして日本を牽引してきた長谷部誠を始め、本田圭佑、酒井高徳らが代表からの引退を表明したことで、若返りと世代交代も森保監督に課せられた大きなテーマである。ただ、こうしたケースは今回が初めてではない。
▽1997年のこと、ソウル五輪出場を逃した石井義信監督が退任し、横山謙三監督が就任した時も大幅な世代交代が行われた。それまで森ジャパンから石井ジャパンまで、長らくチームを牽引してきた加藤久、都並敏史、松木安太郎(読売クラブ)、松浦敏夫(日本鋼管)、原博実(三菱)らが代表のユニホームを脱いだ(都並はオフト・ジャパンで復帰)。
▽彼らに代わって代表入りしたのが、DF井原正巳(筑波大)、信藤克義(マツダ)、望月聡(日本鋼管)、柱谷哲二(日産)、FW平川弘(日産)、浅岡朝泰(日本鋼管)、前田治(東海大)、菅野裕二(トヨタ)、草木克洋(ヤンマー)、だった。当時大学生だった井原と、国士舘大を卒業後、日産に入ったばかりの柱谷は、その後はオフト・ジャパン、ファルカン・ジャパン、加茂ジャパンでも主力として活躍し、井原は日本のW杯初出場に貢献した。
▽横山ジャパンは、それまで4-3-3や4-4-2が主流だったチームに、当時としては斬新だったウイングバックを両サイドに置く3-5-2を採用した。しかし機能したとは言えず、90年イタリアW杯予選は1次リーグで敗退するなど好成績を残すことはできず、91年の日韓定期戦での敗戦により監督を退いた。
▽彼に代わり日本の指揮を執ったのが初の外国人監督であるハンス・オフトだった。オフトは92年のアジアカップで初優勝を果たしたが、W杯アメリカ予選は最終のイラク戦でのドロー、俗に言う「ドーハの悲劇」でW杯出場を逃して監督を退任した。
▽ドーハ組からはラモス瑠偉、都並敏史、武田修宏(V川崎)、中山雅史(磐田)らが代表から外れた。彼らの代わりに94年から指揮を執ったファルカン・ジャパンに呼ばれたのが、当時躍進著しい平塚の名塚善寛、岩本輝雄と台頭してきた若手の前園真聖(横浜F)、小倉隆史(名古屋)だったが、ケガなどもあり長く活躍することはできなかった。
▽果たして今回招集されたメンバーでカタールにたどり着くのは誰なのか。その競争の第一歩となるのが明日のコスタリカ戦でもある。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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