【六川亨の日本サッカーの歩み】アジア大会で感じた男子と女子の成功体験の差
2018.09.03 19:30 Mon
▽インドネシアで開催されていたアジア大会で、男子のU-21日本代表は銀メダル、なでしこジャパンは金メダルを獲得した。韓国との決勝戦となった男子は、元々苦戦が予想された。相手は23歳以下の代表で、兵役免除を狙ってOA枠でFWソン・フンミンとファン・ウィジョ、GKチョ・ヒョヌを起用してきた。
▽それでも森保ジャパンは試合を重ねるごとに堅守からのカウンター狙いというチームコンセプトが固まりつつあったので、「もしかしたら」と期待したのだが、肝心の守備で後手に回ったのは残念だった。
▽90分間は韓国の猛攻に耐えて無失点で切り抜けた。しかし、ミドルサードであまりにも韓国選手をフリーにしすぎた。ギャップに入られるとフリーにしてしまい、簡単にパスをつながれる。そして攻撃陣はプレスバックすることなく味方の守備を見守るだけ。連戦での疲労なのか、それとも森保監督からカウンターに備えるよう指示があったのかどうかはわからないが、テレビで見ていてもどかしさを感じた90分間でもあった。
▽そして延長戦、先制点はペナルティーエリア右に侵入したソン・フンミンをフリーにしてしまう。一番警戒しなければならない選手に対し致命的なミスだ。彼の突破は防いだものの、こぼれ球をイ・スンウに決められた。
▽結果は1-2で敗れた。大学生の上田が決勝トーナメントに入ってゴールという結果で頭角を現したのは朗報だ。“格上”相手の韓国に善戦したことを評価する声もある。Jリーグからは1チーム1名という招集制限と、ぶっつけ本番で大会に臨まなければならなかったこと、そして「まだ21歳以下のチームだから」という理由からだ。しかし、21歳以下でもロシアW杯で活躍した選手の存在を忘れてはならない。
▽対照的になでしこジャパンは、中国に圧倒されながらも菅澤の決勝ヘッドで金メダルを獲得した。この結果を当然と思うファンも多いのではないだろうか。フランスで開催されたU-20W杯ではヤングなでしこが優勝し、U-17W杯と年齢制限のないW杯の優勝とあわせ、日本は初めて3カテゴリーにわたりW杯を制するという偉業を達成した。
▽しかし、90年代にアジアの女子サッカーを牽引したのは日本でも北朝鮮でもなく中国だった。W杯では95年に4位、99年は準優勝。アジア杯は86年から99年まで7連覇を達成し、アジア大会でも女子サッカーが採用された90年から3連覇を果たしている。
▽当時の中国は、強靱なフィジカルでアジア諸国を圧倒した。当たりの強さに加え高さも群を抜いていた。そんな中国の女子サッカーが衰退した理由は定かではないが、90年代は女子サッカーへの世界的な注目度が低かったため、身体能力の優れた選手は五輪で注目を浴びるバスケットやバレーに流れたのではないかと推測している。
▽しかし時代は変わり、W杯や五輪で女子サッカーも注目を浴びるようになった。そのきっかけは11年のなでしこジャパンのW杯優勝だろう。澤が脚光を浴び、12年のロンドン五輪ではアメリカのレジェンドであるアビー・ワンバックが母国を金メダルに導いた。もはや女子サッカーはマイナー競技ではなくなった。
▽そうした時代の移り変わりに、中国が再び女子サッカーの強化に乗り出した結果、銀メダルに終わったとはいえ、なでしこジャパンを圧倒したのではないだろうか。アジアでは北朝鮮とオーストラリア、そして近年力をつけてきた韓国がなでしこジャパンのライバルだった。しかし今大会では中国の躍進を実感しただけに、新たなライバルの出現に危機感を覚えずにはいられない。
▽とはいえ、それでもなでしこジャパンは金メダルを獲得した。それが男子と女子の“メンタリティー”の違い、背負う歴史の違いではないだろうか。成功体験の違いがなでしこジャパンには確実に受け継がれているようだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
▽それでも森保ジャパンは試合を重ねるごとに堅守からのカウンター狙いというチームコンセプトが固まりつつあったので、「もしかしたら」と期待したのだが、肝心の守備で後手に回ったのは残念だった。
▽そして延長戦、先制点はペナルティーエリア右に侵入したソン・フンミンをフリーにしてしまう。一番警戒しなければならない選手に対し致命的なミスだ。彼の突破は防いだものの、こぼれ球をイ・スンウに決められた。
▽結果は1-2で敗れた。大学生の上田が決勝トーナメントに入ってゴールという結果で頭角を現したのは朗報だ。“格上”相手の韓国に善戦したことを評価する声もある。Jリーグからは1チーム1名という招集制限と、ぶっつけ本番で大会に臨まなければならなかったこと、そして「まだ21歳以下のチームだから」という理由からだ。しかし、21歳以下でもロシアW杯で活躍した選手の存在を忘れてはならない。
▽今大会のメンバーは20年東京五輪に向けて伸びしろを期待されてのメンバーでもある。さらにU-19世代の選手も東京五輪を虎視眈々と狙っている。だからこそ、格上相手の韓国とはいえ金メダルという結果を残して欲しかったと思うのは期待しすぎだろうか。
▽対照的になでしこジャパンは、中国に圧倒されながらも菅澤の決勝ヘッドで金メダルを獲得した。この結果を当然と思うファンも多いのではないだろうか。フランスで開催されたU-20W杯ではヤングなでしこが優勝し、U-17W杯と年齢制限のないW杯の優勝とあわせ、日本は初めて3カテゴリーにわたりW杯を制するという偉業を達成した。
▽しかし、90年代にアジアの女子サッカーを牽引したのは日本でも北朝鮮でもなく中国だった。W杯では95年に4位、99年は準優勝。アジア杯は86年から99年まで7連覇を達成し、アジア大会でも女子サッカーが採用された90年から3連覇を果たしている。
▽当時の中国は、強靱なフィジカルでアジア諸国を圧倒した。当たりの強さに加え高さも群を抜いていた。そんな中国の女子サッカーが衰退した理由は定かではないが、90年代は女子サッカーへの世界的な注目度が低かったため、身体能力の優れた選手は五輪で注目を浴びるバスケットやバレーに流れたのではないかと推測している。
▽しかし時代は変わり、W杯や五輪で女子サッカーも注目を浴びるようになった。そのきっかけは11年のなでしこジャパンのW杯優勝だろう。澤が脚光を浴び、12年のロンドン五輪ではアメリカのレジェンドであるアビー・ワンバックが母国を金メダルに導いた。もはや女子サッカーはマイナー競技ではなくなった。
▽そうした時代の移り変わりに、中国が再び女子サッカーの強化に乗り出した結果、銀メダルに終わったとはいえ、なでしこジャパンを圧倒したのではないだろうか。アジアでは北朝鮮とオーストラリア、そして近年力をつけてきた韓国がなでしこジャパンのライバルだった。しかし今大会では中国の躍進を実感しただけに、新たなライバルの出現に危機感を覚えずにはいられない。
▽とはいえ、それでもなでしこジャパンは金メダルを獲得した。それが男子と女子の“メンタリティー”の違い、背負う歴史の違いではないだろうか。成功体験の違いがなでしこジャパンには確実に受け継がれているようだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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