【六川亨の日本サッカーの歩み】アジア大会の歴史
2018.08.21 13:00 Tue
▽インドネシアで開催中のアジア大会・男子サッカーで、すでに決勝トーナメント進出を決めているU-21日本は、1次リーグ最終戦でベトナムに0-1で敗れた。この結果、D組2位になり、24日の決勝トーナメント1回戦でE組1位のマレーシアと対戦する。
▽日本は試合開始直後の前半3分、GKオビがMF神谷に出したパスを奪われ先制点を許した。相手のプレッシャーが厳しいため大きく蹴っておけば防げた失点だけに、もったいない決勝点でもあった。ただ、相手のベトナムは今年1月のU―23アジア選手権で準優勝し、今大会ではOA(オーバーエイジ)枠も使った“本気で勝ちに来た"チーム。このため日本は序盤から相手の圧力にミスを連発するなど、実力差は明らかだった。
▽果たして決勝トーナメントで日本はどこまで勝ち進むことができるのか。できるだけ多く試合を経験することで、選手の成長に期待したいところだ。
▽といったところで、今週はアジア大会の歴史を簡単に振り返ってみたい。今大会は1951年に第1回大会がインドのニューデリーで開催された。この大会は、日本にとって記念すべき大会でもあった。というのも日本は、第二次世界大戦の影響でFIFA(国際サッカー連盟)から資格停止処分を受けていたが、50年のFIFA総会で日本とドイツの復帰が認められ、戦後初の国際大会がこのアジア大会だったからだ。
▽6カ国が参加した第1回大会で、日本は1勝1分け1敗ながら3位に輝く。以後、このアジア大会は日本にとって、Jリーグが誕生するまでは五輪と並ぶビッグイベントになった。
▽その理由として、アジア大会の日本は予選なしで本大会に参加できるのに対し、アジアカップは予選を勝ち抜かないと本大会には出られないこと。アジアカップは五輪と同じ年に開催されるため、五輪出場を第1と考えた日本は参加に消極的だったこと。さらに予選や本大会はJSL(日本サッカーリーグ)と日程が重なることなどの障害があったからだった。
▽88年の大会に大学生選抜ではあるが初参加したのは、92年に広島でアジアカップを開催するからだった。そのアジアカップも2年後の94年に広島でアジア大会を開催するので、新設されたビッグアーチを使用するなど“プレ大会"の意味合いが強かった。Jリーグの開幕を1年後に控えても、まだ日本サッカーはアジア大会を優先していた。
▽ところがオフト監督に率いられた日本は、フル代表として初参加にもかかわらず92年のアジアカップで優勝してしまった(アジア大会は準々決勝で韓国に敗退)。そしてJリーグ開幕である。自ずと日本の目標はそれまでのアジア大会からアジアカップへと移った。
▽これは余談だが、Jリーグ開幕以前のアジア大会に参加した元日本代表選手は、「サッカーは開催期間が長いのに対し、大会序盤で早めに終わってしまう他競技もある。すると、解放感に満ちた女性アスリートが夜な夜な僕たちの泊まっている部屋のドアをノックしに来る。そこで『選手村にいては誘惑が多すぎる』との理由から、ホテルを借りることになった」というエピソードを教えてもらったこともある。
▽話をアジア大会に戻そう。アジアカップはその後2000年(トルシエ監督)、2004年(ジーコ監督)、2011年(ザッケローニ監督)と優勝を重ねた。それまでは五輪と同じ年に開催されてきたが、2008年は北京五輪と開催時期が重なるため、AFC(アジアサッカー連盟)はベトナムなど4カ国で開催される大会を1年前倒しにして2007年に移した(オシム・ジャパンが参加)。以後、4年周期の開催は変わっていない。
▽一方のアジア大会はというと、1998年のタイ・バンコク大会から男子サッカーは五輪と同じ形式に変更された。年齢制限が設けられ、原則として23歳以下で3人までのOA枠を認めるという形だ。そこでJFAは五輪代表の強化の一環と位置づけ、2年後の五輪代表の候補選手――アジア大会時には21歳以下の日本代表――で臨む方針を決め、今日までこのスタイルは踏襲されている。
▽W杯後に開催されるアジア大会では、フル代表と同様に五輪代表の監督も代わり初陣となる。98年のバンコク大会ではトルシエ監督(U―20日本代表と3チームの監督を兼任)が指揮を執り、02年の釜山大会では山本ジャパンが銀メダルを獲得。06年カタール大会での反町ジャパンは結果を残すことはできなかったが、10年広州大会での関塚ジャパンは、村山や比嘉ら大学生が主体だったにもかかわらず初優勝を果たし、その後は東や大津、永井、清武らJクラブの若手を主体としたチーム編成でロンドン五輪ではベスト4に躍進した。
▽直近の14年仁川大会に臨んだ手倉森ジャパンは、準々決勝で優勝した韓国にラスト2分でPKを献上し、これを現FC東京のチャン・ヒョンスに決められベスト4進出のノルマは達成できなかった。このときの韓国は兵役免除を狙った最強チームで、地元開催で見事4度目の優勝を飾り、イランの最多記録に並んだ。
▽そして今回のジャカルタ大会である。大会史上初の連覇を狙う韓国は、フル代表のエースFWソン・フンミン(スパーズ)をはじめ、G大阪のFWファン・ウィジョ、GKチョ・ヒョヌ(大FC)とOA枠をフル活用。前回大会同様、兵役免除という目標もあり、優勝候補の一角と目されていた。
▽ところがグループリーグでマレーシアにまさかの敗戦(1-2)。日本がベトナムに敗れてD組2位になったため、順当なら1位通過が予想された韓国と激突するのがマレーシアに変わった。これをラッキーととらえるかどうかは選手の奮闘次第だが、やはりアンダーカテゴリーの試合は何が起こるか分からない怖さがあるようだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
▽日本は試合開始直後の前半3分、GKオビがMF神谷に出したパスを奪われ先制点を許した。相手のプレッシャーが厳しいため大きく蹴っておけば防げた失点だけに、もったいない決勝点でもあった。ただ、相手のベトナムは今年1月のU―23アジア選手権で準優勝し、今大会ではOA(オーバーエイジ)枠も使った“本気で勝ちに来た"チーム。このため日本は序盤から相手の圧力にミスを連発するなど、実力差は明らかだった。
▽といったところで、今週はアジア大会の歴史を簡単に振り返ってみたい。今大会は1951年に第1回大会がインドのニューデリーで開催された。この大会は、日本にとって記念すべき大会でもあった。というのも日本は、第二次世界大戦の影響でFIFA(国際サッカー連盟)から資格停止処分を受けていたが、50年のFIFA総会で日本とドイツの復帰が認められ、戦後初の国際大会がこのアジア大会だったからだ。
▽6カ国が参加した第1回大会で、日本は1勝1分け1敗ながら3位に輝く。以後、このアジア大会は日本にとって、Jリーグが誕生するまでは五輪と並ぶビッグイベントになった。
▽アジアのナンバー1を決めるのは、来年1月にUAEで開催されるアジアカップであることは周知の事実。日本は最多4回の優勝を誇るが、1956年に創設された同大会に日本が初参加したのは1988年のこと。しかもこの大会に日本は堀池(当時は順天堂大)ら大学生選抜で臨んだ。
▽その理由として、アジア大会の日本は予選なしで本大会に参加できるのに対し、アジアカップは予選を勝ち抜かないと本大会には出られないこと。アジアカップは五輪と同じ年に開催されるため、五輪出場を第1と考えた日本は参加に消極的だったこと。さらに予選や本大会はJSL(日本サッカーリーグ)と日程が重なることなどの障害があったからだった。
▽88年の大会に大学生選抜ではあるが初参加したのは、92年に広島でアジアカップを開催するからだった。そのアジアカップも2年後の94年に広島でアジア大会を開催するので、新設されたビッグアーチを使用するなど“プレ大会"の意味合いが強かった。Jリーグの開幕を1年後に控えても、まだ日本サッカーはアジア大会を優先していた。
▽ところがオフト監督に率いられた日本は、フル代表として初参加にもかかわらず92年のアジアカップで優勝してしまった(アジア大会は準々決勝で韓国に敗退)。そしてJリーグ開幕である。自ずと日本の目標はそれまでのアジア大会からアジアカップへと移った。
▽これは余談だが、Jリーグ開幕以前のアジア大会に参加した元日本代表選手は、「サッカーは開催期間が長いのに対し、大会序盤で早めに終わってしまう他競技もある。すると、解放感に満ちた女性アスリートが夜な夜な僕たちの泊まっている部屋のドアをノックしに来る。そこで『選手村にいては誘惑が多すぎる』との理由から、ホテルを借りることになった」というエピソードを教えてもらったこともある。
▽話をアジア大会に戻そう。アジアカップはその後2000年(トルシエ監督)、2004年(ジーコ監督)、2011年(ザッケローニ監督)と優勝を重ねた。それまでは五輪と同じ年に開催されてきたが、2008年は北京五輪と開催時期が重なるため、AFC(アジアサッカー連盟)はベトナムなど4カ国で開催される大会を1年前倒しにして2007年に移した(オシム・ジャパンが参加)。以後、4年周期の開催は変わっていない。
▽一方のアジア大会はというと、1998年のタイ・バンコク大会から男子サッカーは五輪と同じ形式に変更された。年齢制限が設けられ、原則として23歳以下で3人までのOA枠を認めるという形だ。そこでJFAは五輪代表の強化の一環と位置づけ、2年後の五輪代表の候補選手――アジア大会時には21歳以下の日本代表――で臨む方針を決め、今日までこのスタイルは踏襲されている。
▽W杯後に開催されるアジア大会では、フル代表と同様に五輪代表の監督も代わり初陣となる。98年のバンコク大会ではトルシエ監督(U―20日本代表と3チームの監督を兼任)が指揮を執り、02年の釜山大会では山本ジャパンが銀メダルを獲得。06年カタール大会での反町ジャパンは結果を残すことはできなかったが、10年広州大会での関塚ジャパンは、村山や比嘉ら大学生が主体だったにもかかわらず初優勝を果たし、その後は東や大津、永井、清武らJクラブの若手を主体としたチーム編成でロンドン五輪ではベスト4に躍進した。
▽直近の14年仁川大会に臨んだ手倉森ジャパンは、準々決勝で優勝した韓国にラスト2分でPKを献上し、これを現FC東京のチャン・ヒョンスに決められベスト4進出のノルマは達成できなかった。このときの韓国は兵役免除を狙った最強チームで、地元開催で見事4度目の優勝を飾り、イランの最多記録に並んだ。
▽そして今回のジャカルタ大会である。大会史上初の連覇を狙う韓国は、フル代表のエースFWソン・フンミン(スパーズ)をはじめ、G大阪のFWファン・ウィジョ、GKチョ・ヒョヌ(大FC)とOA枠をフル活用。前回大会同様、兵役免除という目標もあり、優勝候補の一角と目されていた。
▽ところがグループリーグでマレーシアにまさかの敗戦(1-2)。日本がベトナムに敗れてD組2位になったため、順当なら1位通過が予想された韓国と激突するのがマレーシアに変わった。これをラッキーととらえるかどうかは選手の奮闘次第だが、やはりアンダーカテゴリーの試合は何が起こるか分からない怖さがあるようだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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