【六川亨の日本サッカーの歩み】ロシアW杯総括2018.07.24 18:00 Tue

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▽ロシアW杯の決勝から10日あまり。次期日本代表の監督は森保氏の就任が濃厚だが、ロシアW杯における日本代表を総括した話は一切聞こえてこない。西野前監督が短期間にもかかわらずベスト16に進出したことで、これまであった「主力選手がヨーロッパで活躍しているのだから、監督もヨーロッパで実績のある外国人を起用すべき」といった意見はなし崩しに霧消したようだ。

▽そんなロシアW杯で、フランス対クロアチアの決勝戦は今大会を象徴するようなゴールが生まれた。まず前半18分、それまで守勢一方だったフランスは右FKからマンジュキッチのOGで先制する。それまで1本もシュートを放っていないフランスが先制したのはちょっとした驚きだった。

▽決勝戦が見応えのある好ゲームになったのは、3試合連続して延長戦を闘ったクロアチアが、守備を固めてカウンターを狙うのではなく攻撃的なサッカーを展開したからだ。前半28分の同点ゴールもFKからの流れで生まれた。

▽そしてフランスの勝ち越しゴールは今大会から採用されたVARによるPKからのもの。賛否両論のあるVARだが、PKの判定が下されるまで3分ほどの中断期間があったのは正直興ざめした。決勝戦に限らず、オフサイドの判定もラインズマンが旗をあげるタイミングが遅いのもVAR導入の影響だったが、今後も改善の余地は多々あるように感じた。

▽そのフランスの追加点は攻勢に出たクロアチアの隙をついたカウンターからだった。近年のW杯はボールを奪ってから15秒以内のカウンターとセットプレーからゴールが生まれる傾向があると指摘されてきたが、ロシアW杯はさらにセットプレーからのゴール、とりわけヘディングによるゴールが増えた印象が強い(特にイングランド)。

▽各国とも代表はームは強化する時間は限られている。そこで短期決戦を乗り切るには「個の力」によるカウンターとセットプレーがカギになることを示したのがロシアW杯だった。フランスのムバッペ、イングランドのスターリング、そしてベルギーのE・アザールやデ・ブライネらベスト4に進出したチームにはいずれも俊足のアタッカーを擁していた。

▽そうした中で大会MVPを獲得したクロアチアのモドリッチは、「クラシカルなセントラルMF」だけに、貴重な存在でもある。彼をMVPに選出したFIFA(国際サッカー連盟)のテクニカルスタッフも、モドリッチのファンタジーあふれるプレーに、ヨハン・クライフらかつての名選手に通じるノスタルジーを感じたのかもしれない。

▽翻って日本である。失点は大会前のテストマッチからカウンターとセットプレーが多いと指摘されてきた。それが本大会でも続いたわけだが、それは日本に限ったことではないことがW杯でも証明された。こちらに関しては、技術委員会がどのようなレポートを作成するのか注目したい。

▽最後に、ロシアW杯の期間中は多くのロシア人から「日本のファンになった」と声を掛けられた。夜行の寝台車で同席したポーランドのサポーターからも「日本はいいチームだ」と言われた。知人の記者はカザフスタンのファンから「ずっと日本を応援していた。なぜならアジアの代表だから」と言われたそうだ(カザフスタンはヨーロッパに所属しているにもかかわらず)。

▽こんなことは、ベスト16に進出した02年日韓W杯や10年南アW杯でも言われた記憶がない。それだけコロンビア戦の勝利、ポーランド戦の時間稼ぎ、そしてベルギー戦の奮闘が多くの人々の印象に残ったからだろう。

▽ただ、冷静に振り返ってみれば、西野監督はグループステージを1勝1分け1敗で通過した。トルシエ・ジャパンは2勝1分け、岡田ジャパンは2勝1敗でベスト16に進んでいる。数字的にはギリギリのグループステージ突破だったが。ポーランド戦以外はゴールを目指した攻撃的なサッカーが他国のファンを魅了したのだろう。

▽記録としてはたいしたことはないものの、記憶に残る闘いを演じたのがロシアW杯の日本代表と言える。

▽6月上旬に日本のベースキャンプ地であるカザン入りしてから6週間を現地で過ごした。カザンでは「ワールドカップ」と言っても話は通じず、現地の人々からは「チャンピオンシップね」と訂正された。それだけ認識のズレがあったのだろう。

▽しかし大会が進むにつれて「ワールドカップ」は浸透し、ヴォルゴグラードで知り合った女性記者は「ワールドカップって、スタジアムに人々が集うだけじゃないのね。街の中心街にある広場やレストラン、夜にはバーにも世界各地から来た人々でいっぱい。こんなことは今までのロシアにはなかったことだわ」と興奮気味に話していた。

▽南ア、ブラジル、ロシアと3大会連続して広大な大陸を取材したが、いつも勝者は開催国かもしれない。新たなマーケットの開発と獲得というFIFAの深謀遠慮を改めて感じたW杯。そして次は初めて中東・カタールでの開催だ。大会期間中の7月11日からカタールは、大会PRのためのブースをモスクワ川に面したゴーリキーパークに設置した。さらに市内中心部の、赤の広場に面した高級デパート「グム」や繁華街でもPRイベントを実施した。

▽こちらも関係者を取材したので、別の機会に紹介したい。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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安室さんの引退で思い出す98フランスW杯【六川亨の日本サッカーの歩み】

▽安室奈美恵さんが9月16日のコンサートを最後に歌手活動から引退した。彼女の引退に、感慨深い思いを抱いているサッカーファンもいるのではないだろうか。 ▽遡ること20年前、98年のフランス大会で日本は初めてワールドカップの出場を果たした。当時は多くの旅行代理店がフランスW杯のツアーを企画。身近なところでは親族が新婚旅行にとツアーに申し込んだ。 ▽しかし日本戦のチケットは入手が困難で、親族の申し込んだツアーは中止になり、新婚旅行も取りやめに。あるツアーでは、現地入りしたものの全員分のチケットを確保できず、仕方なくじゃんけんでチケットを争うという、笑うに笑えない話もあった。 ▽こうして迎えた6月14日、トゥールーズでの初戦、日本対アルゼンチン戦でのことだった。試合前、大会公式ソングの「カップ・オブ・ライフ」がスペイン語でスタジアムに流れた。リッキーマーティンの公式ソングは英語で歌われたが、元々はスペイン語版を英訳したもの。それをあえてスペイン語版で流したのは、アルゼンチンのサポーターに向けてのメッセージだったのだろう。 ▽そして次に流れたのは、安室奈美恵さんの「CAN YOU CELEBRATE?」だった。前年の97年のヒットソングだが、意表を突かれた選曲だった。この曲をスタジアムで聴き、涙したのはファン・サポーターだけではなかった。取材した記者、カメラマンも97年のW杯最終予選の苦しさを思い出しつつ、あたかも彼女が日本のW杯初出場を祝福してくれているようで、大いに涙腺が緩んだものだ。 ▽大会組織委員会の粋な計らいでもある。試合はバティストゥータの決勝点で0-1と敗れるなど、初めてのW杯は3戦全敗に終わった。あれから20年、フランスが再びW杯を制し、安室奈美恵さんは歌手活動から引退した。 ▽彼女の名曲を耳にするたびに、チケット騒動も含めて熱狂的だったフランスW杯を思い出す人も多いのではないだろうか。 ▽余談だが、16年リオ五輪のグループリーグ最終戦、日本対スウェーデン戦の前にはABBAの「ダンシング・クイーン」がスタジアムに流れた。ABBAはスウェーデンを代表する名バンドだ。そこで次は日本のどのミュージシャンの、どんな曲がかかるのか期待したが、試合前の音楽はABBAの1曲だけ。肩すかしを食らいがっかりしたのを覚えている。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.09.18 17:00 Tue
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繰り返される日本代表の世代交代【六川亨の日本サッカーの歩み】

▽9月10日、キリンチャレンジカップに臨む日本代表の森保一監督が、コスタリカ代表戦を控えて公式会見を行った。森保監督はコスタリカ戦について、「韓国代表戦(7日)から監督が代わり、システムも変わったので柔軟に対応したい。臨機応変に対応したい」とアジア大会でも選手に求めた“対応力"を強調。その上で、「攻撃的にやりたいが、試合の流れもあり、守るときは守り、速い攻めができるときは速く攻める」とチームコンセプトを説明した。 ▽北海道地震でチリ代表戦が中止となり、練習も十分とは言えない。そうした状況での初陣だけに、チームとしてどこまで機能するか、さらに“個の力"にしても代表の経験が浅い選手が多いだけに、どこまで発揮できるのか未知数の部分が多い。 ▽今回招集された22人(杉本は右足の負傷で離脱)のうち、二桁出場は槙野智章(33)、遠藤航(12)、小林悠(13)、浅野拓磨(17)の4人だけ。初招集は佐々木翔、冨安健洋、天野純、守田英正、伊藤達哉、堂安律の6人。さらに過去GKトレーニングで招集されたシュミット・ダニエルは1試合も出場経験がない。 ▽これだけフレッシュなメンバーになったのは、今回は海外組の招集を見送ったからだ。さらに2020年東京五輪を見据えて呼ばれたメンバーもいる。このため来年1月にUAEで開催されるアジアカップの予備軍と言えるだろう。 ▽長らくキャプテンとして日本を牽引してきた長谷部誠を始め、本田圭佑、酒井高徳らが代表からの引退を表明したことで、若返りと世代交代も森保監督に課せられた大きなテーマである。ただ、こうしたケースは今回が初めてではない。 ▽1997年のこと、ソウル五輪出場を逃した石井義信監督が退任し、横山謙三監督が就任した時も大幅な世代交代が行われた。それまで森ジャパンから石井ジャパンまで、長らくチームを牽引してきた加藤久、都並敏史、松木安太郎(読売クラブ)、松浦敏夫(日本鋼管)、原博実(三菱)らが代表のユニホームを脱いだ(都並はオフト・ジャパンで復帰)。 ▽彼らに代わって代表入りしたのが、DF井原正巳(筑波大)、信藤克義(マツダ)、望月聡(日本鋼管)、柱谷哲二(日産)、FW平川弘(日産)、浅岡朝泰(日本鋼管)、前田治(東海大)、菅野裕二(トヨタ)、草木克洋(ヤンマー)、だった。当時大学生だった井原と、国士舘大を卒業後、日産に入ったばかりの柱谷は、その後はオフト・ジャパン、ファルカン・ジャパン、加茂ジャパンでも主力として活躍し、井原は日本のW杯初出場に貢献した。 ▽横山ジャパンは、それまで4-3-3や4-4-2が主流だったチームに、当時としては斬新だったウイングバックを両サイドに置く3-5-2を採用した。しかし機能したとは言えず、90年イタリアW杯予選は1次リーグで敗退するなど好成績を残すことはできず、91年の日韓定期戦での敗戦により監督を退いた。 ▽彼に代わり日本の指揮を執ったのが初の外国人監督であるハンス・オフトだった。オフトは92年のアジアカップで初優勝を果たしたが、W杯アメリカ予選は最終のイラク戦でのドロー、俗に言う「ドーハの悲劇」でW杯出場を逃して監督を退任した。 ▽ドーハ組からはラモス瑠偉、都並敏史、武田修宏(V川崎)、中山雅史(磐田)らが代表から外れた。彼らの代わりに94年から指揮を執ったファルカン・ジャパンに呼ばれたのが、当時躍進著しい平塚の名塚善寛、岩本輝雄と台頭してきた若手の前園真聖(横浜F)、小倉隆史(名古屋)だったが、ケガなどもあり長く活躍することはできなかった。 ▽果たして今回招集されたメンバーでカタールにたどり着くのは誰なのか。その競争の第一歩となるのが明日のコスタリカ戦でもある。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.09.11 11:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】早川コンディショニングコーチの思い出

▽インドネシアで開催されているアジア大会で、UFA―21日本代表は準々決勝でサウジアラビアと対戦。岩崎(京都)の2ゴールによる活躍で2-1の勝利を収め、森保監督の目標だったベスト4のノルマをクリアした。準決勝は中1日の29日、UAE対北朝鮮の勝者と対戦する。また、なでしこジャパンも準々決勝で難敵・北朝鮮を2-1で下してベスト4に進出。今日28日、準決勝で韓国と対戦する。 ▽グループリーグ突破は想定内として、決勝トーナメント以降は苦戦が予想された森保ジャパン。しかし試合を重ねるごとに攻撃の形が明確になってきた。前線の前田(松本)、岩崎、旗手(順天堂大)とスピードを武器にする3人がロングパスやスルーパスに飛び出してサウジゴールを脅かした。その攻撃スタイルは、森保監督が広島を率いてリーグ優勝を果たしている時を彷彿させる。 ▽そしてベスト4に進出したことで、決勝戦か3位決定戦が9月1日にあるため、帰国は早くても9月2日となる。その日はJリーグの開催日で、翌3日にチリ戦とコスタリカ戦に臨む日本代表のメンバーが発表される予定だ。つまり、森保監督は、国内組はもちろん、海外組の選手も直近のコンディションを確認することなく選手の選考をしなければならない。 ▽果たしてどんなガイドラインで選手を選考したのか、当日のメンバー発表でのコメントに注目したい。 ▽さて、8月24日のこと、JFA(日本サッカー協会)は日本代表の手倉森コーチ、早川コンディショニングコーチ、浜野GKコーチとの契約満了を発表した。早川氏がアスレチックトレーナーとして日本代表と関わるようになったのは1999年のこと。以来、日本代表にはいつも同氏の姿があった。 ▽酷暑となる中東での試合では、体温を下げるために巨大なパリバケツに氷水を張り、ハーフタイムに選手はそこで身体を冷やしてから後半に臨むことにした。水温をどれくらいに保つか調整するため、前半の途中からロッカールームに引き上げたそうだ。 ▽アジア大会の男子マラソンで金メダルを取った井上は、ランニング中に水分補給はもちろんのこと、氷や保冷剤を使って体温の上昇を防いだことを新聞で読んだ。同じことをサッカー界は20年も前から実施していたのだ。その間、ハートレイモニターで心拍数を図ったり、GPSを装着して走行距離やスプリント回数のデータを取ったり、採尿と採血で疲労度をチェックしたりと、科学的・医学的なアプローチも進化した。 ▽そうしたデータがありながら、ザック・ジャパンやハリル・ジャパンの外国人フィジコはあまり活用していなかったと、JFA関係者からロシアW杯期間中に聞いた。データよりも自身の経験を優先したのかもしれない。その点、早川氏は選手とダイレクトにコミュニケーションを取れるため、西野監督にオフ日を提案するなど疲労回復に努めたのがベスト16進出の一因になったのかもしれない。 ▽そんな早川氏も、もう55歳。日本代表と五輪代表は森保監督のスタッフに譲り、9月2日から始まるUFA―19日本代表のメキシコ遠征に帯同する。日本代表の練習や試合で同氏の姿が見られないのは寂しいが、新たなステージで末永く活躍して欲しいと願わずにはいられない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.28 13:45 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】アジア大会の歴史

▽インドネシアで開催中のアジア大会・男子サッカーで、すでに決勝トーナメント進出を決めているU-21日本は、1次リーグ最終戦でベトナムに0-1で敗れた。この結果、D組2位になり、24日の決勝トーナメント1回戦でE組1位のマレーシアと対戦する。 ▽日本は試合開始直後の前半3分、GKオビがMF神谷に出したパスを奪われ先制点を許した。相手のプレッシャーが厳しいため大きく蹴っておけば防げた失点だけに、もったいない決勝点でもあった。ただ、相手のベトナムは今年1月のU―23アジア選手権で準優勝し、今大会ではOA(オーバーエイジ)枠も使った“本気で勝ちに来た"チーム。このため日本は序盤から相手の圧力にミスを連発するなど、実力差は明らかだった。 ▽果たして決勝トーナメントで日本はどこまで勝ち進むことができるのか。できるだけ多く試合を経験することで、選手の成長に期待したいところだ。 ▽といったところで、今週はアジア大会の歴史を簡単に振り返ってみたい。今大会は1951年に第1回大会がインドのニューデリーで開催された。この大会は、日本にとって記念すべき大会でもあった。というのも日本は、第二次世界大戦の影響でFIFA(国際サッカー連盟)から資格停止処分を受けていたが、50年のFIFA総会で日本とドイツの復帰が認められ、戦後初の国際大会がこのアジア大会だったからだ。 ▽6カ国が参加した第1回大会で、日本は1勝1分け1敗ながら3位に輝く。以後、このアジア大会は日本にとって、Jリーグが誕生するまでは五輪と並ぶビッグイベントになった。 ▽アジアのナンバー1を決めるのは、来年1月にUAEで開催されるアジアカップであることは周知の事実。日本は最多4回の優勝を誇るが、1956年に創設された同大会に日本が初参加したのは1988年のこと。しかもこの大会に日本は堀池(当時は順天堂大)ら大学生選抜で臨んだ。 ▽その理由として、アジア大会の日本は予選なしで本大会に参加できるのに対し、アジアカップは予選を勝ち抜かないと本大会には出られないこと。アジアカップは五輪と同じ年に開催されるため、五輪出場を第1と考えた日本は参加に消極的だったこと。さらに予選や本大会はJSL(日本サッカーリーグ)と日程が重なることなどの障害があったからだった。 ▽88年の大会に大学生選抜ではあるが初参加したのは、92年に広島でアジアカップを開催するからだった。そのアジアカップも2年後の94年に広島でアジア大会を開催するので、新設されたビッグアーチを使用するなど“プレ大会"の意味合いが強かった。Jリーグの開幕を1年後に控えても、まだ日本サッカーはアジア大会を優先していた。 ▽ところがオフト監督に率いられた日本は、フル代表として初参加にもかかわらず92年のアジアカップで優勝してしまった(アジア大会は準々決勝で韓国に敗退)。そしてJリーグ開幕である。自ずと日本の目標はそれまでのアジア大会からアジアカップへと移った。 ▽これは余談だが、Jリーグ開幕以前のアジア大会に参加した元日本代表選手は、「サッカーは開催期間が長いのに対し、大会序盤で早めに終わってしまう他競技もある。すると、解放感に満ちた女性アスリートが夜な夜な僕たちの泊まっている部屋のドアをノックしに来る。そこで『選手村にいては誘惑が多すぎる』との理由から、ホテルを借りることになった」というエピソードを教えてもらったこともある。 ▽話をアジア大会に戻そう。アジアカップはその後2000年(トルシエ監督)、2004年(ジーコ監督)、2011年(ザッケローニ監督)と優勝を重ねた。それまでは五輪と同じ年に開催されてきたが、2008年は北京五輪と開催時期が重なるため、AFC(アジアサッカー連盟)はベトナムなど4カ国で開催される大会を1年前倒しにして2007年に移した(オシム・ジャパンが参加)。以後、4年周期の開催は変わっていない。 ▽一方のアジア大会はというと、1998年のタイ・バンコク大会から男子サッカーは五輪と同じ形式に変更された。年齢制限が設けられ、原則として23歳以下で3人までのOA枠を認めるという形だ。そこでJFAは五輪代表の強化の一環と位置づけ、2年後の五輪代表の候補選手――アジア大会時には21歳以下の日本代表――で臨む方針を決め、今日までこのスタイルは踏襲されている。 ▽W杯後に開催されるアジア大会では、フル代表と同様に五輪代表の監督も代わり初陣となる。98年のバンコク大会ではトルシエ監督(U―20日本代表と3チームの監督を兼任)が指揮を執り、02年の釜山大会では山本ジャパンが銀メダルを獲得。06年カタール大会での反町ジャパンは結果を残すことはできなかったが、10年広州大会での関塚ジャパンは、村山や比嘉ら大学生が主体だったにもかかわらず初優勝を果たし、その後は東や大津、永井、清武らJクラブの若手を主体としたチーム編成でロンドン五輪ではベスト4に躍進した。 ▽直近の14年仁川大会に臨んだ手倉森ジャパンは、準々決勝で優勝した韓国にラスト2分でPKを献上し、これを現FC東京のチャン・ヒョンスに決められベスト4進出のノルマは達成できなかった。このときの韓国は兵役免除を狙った最強チームで、地元開催で見事4度目の優勝を飾り、イランの最多記録に並んだ。 ▽そして今回のジャカルタ大会である。大会史上初の連覇を狙う韓国は、フル代表のエースFWソン・フンミン(スパーズ)をはじめ、G大阪のFWファン・ウィジョ、GKチョ・ヒョヌ(大FC)とOA枠をフル活用。前回大会同様、兵役免除という目標もあり、優勝候補の一角と目されていた。 ▽ところがグループリーグでマレーシアにまさかの敗戦(1-2)。日本がベトナムに敗れてD組2位になったため、順当なら1位通過が予想された韓国と激突するのがマレーシアに変わった。これをラッキーととらえるかどうかは選手の奮闘次第だが、やはりアンダーカテゴリーの試合は何が起こるか分からない怖さがあるようだ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.21 13:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ソウル五輪予選で日本を破った中国選手の息子がJ1で活躍

▽先週末10日のJ1リーグ、今シーズンから導入された「フライデーナイトJリーグ」のG大阪対FC東京戦で、懐かしい名前を久々に聞いた。試合はG大阪がファビオのゴールで先制すれば、FC東京もディエゴ・オリヴェイラが個人技による突破から同点に追いつく。そして迎えた後半アディショナルタイムの95分、G大阪は高宇洋(こう たかひろ)のアシストからアデミウソンが決勝点を決めて9試合ぶりの、宮本監督になってからは初の勝利をあげた。 ▽試合後、解説を務めた水沼貴史さんは決勝点をアシストした高をヒーローインタビューしたが、そこで「僕もお父さんと試合をしたことがあるんですよ」と高に話しかけたのでピンと来た。 ▽調べたところ高は川崎Fの下部組織出身で、ユースに昇格できたものの市立船橋高に進み、高校3年時にはインターハイで優勝している。そして市立船橋高に在学中に日本国籍を取得した。ボランチとしてJの複数クラブから声がかかり、G大阪に入団したのが昨シーズンのこと。昨夏にはA契約を結んだのだから、将来を嘱望される選手なのだろう。 ▽さて彼の父親である。水沼さんが「試合をしたことがある」のは、忘れもしない87年のソウル五輪アジア最終予選の中国戦だ。日本はアウェー広州での試合を原博実のゴールにより1-0の勝利を収めた。あとは日本でのホームゲームで引き分ければ20年ぶりの五輪出場が決まる。しかしホームで0-2と敗れ、五輪出場の夢を断たれた。 ▽そのときの中国DFが高の父親である高升(こう しょう)だった。当時の中国には後にG大阪入りするストッパー賈秀全や、馬林、柳海光といった大型ストライカーを擁し、1948年のロンドン五輪以来40年ぶりの五輪出場を果たした。 ▽なぜ高升の名前を覚えていたかというと、その後は沈祥福、呂洪祥ら中国代表のチームメイトから誘われ、富士通(現川崎F)でプレーしたからだった(当時の富士通はJSL2部)。当時の富士通は中国に進出するため、中国人選手を獲得したという噂も流れた。日本での現役生活は91年から95年の4年間と短かったものの、その間に日本人女性と結婚し、06年には川崎Fの指導者を務めたこともある。 ▽さらに岡田武史氏が中国スーパーリーグの杭州緑城の監督を務めた際は、アシスタントコーチとして同氏を支えるなど、日本との縁も深い。現役時代の水沼氏にとっては五輪出場を阻まれたライバルでもある高升。ひょんなところから懐かしい名前が飛び出したものだと感心せずにはいられなかった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.14 13:00 Tue
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