【六川亨の日本サッカーの歩み】元日本代表監督の石井氏とのエピソード
2018.05.07 22:25 Mon
▽去る4月26日、元日本代表監督の石井義信氏(享年79歳)がご逝去され、通夜が5月1日に催された。石井氏は広島県生まれで、高校卒業後に一般試験で東洋工業(現マツダ)に入社。サッカーは高校時代に始めたが、東洋工業蹴球部(現サンフレッチェ広島)でレギュラーに定着すると、1965年に創設されたJSL(日本サッカーリーグ)では67年まで3連覇を達成すると、65年と67年の天皇杯優勝にも貢献した。
▽1975年にはフジタ工業サッカー部(現湘南ベルマーレ)の監督に就任し、マリーニョやカルバリオらを擁して攻撃的なサッカーで、77年と79年にリーグタイトルと天皇杯の2冠獲得を達成した。そしてフジタの監督を退いた1980年からはJSLの常任運営委員に就任し、後のJリーグ創設にも貢献した。
▽そんな石井氏が1986年に日本代表の監督に抜擢される。前任の森孝慈監督(故人)は85年10月26日のメキシコW杯アジア最終予選の第1戦に続き、11月3日の第2戦でも韓国に敗れ、W杯出場の夢を断たれる。森監督は強化のためにはプロ化が急務と考え、まず監督のプロ化の必要性を訴えたもののJFA(日本サッカー協会)は時期尚早と判断。森氏は代表監督から退いたため、石井氏に白羽の矢が立った。
▽通夜にはフジタ時代の主力選手だったマリーニョさんや、日本代表の一員としてソウル五輪予選を戦った奥寺康彦さん、都並敏史さん、水沼貴史さん、金子久さんと谷中治さん、前田治さんら帝京高校OBなど懐かしい顔が揃い、故人を偲んでいた。
▽そんな石井氏にとって忘れられない出来事がある。日本代表の監督時代はフジタの攻撃的なサッカーから一変、守備的なサッカーを採用した。ライバルの韓国は予選に参加していないものの、それでも日本の実力はかなり低いと判断したからだ。
▽そこで当時務めていたサッカー専門誌で石井ジャパンに批判的な記事を書いたところ、西が丘での練習後の囲み取材で質問したら一切無視された。普段は柔和な石井監督が質問を無視したのだから、よほど批判が気に入らなかったのだろう。
▽それでも石井ジャパンはソウル五輪予選を勝ち上がり、中国との最終予選に進出した。第1戦は87年10月4日、アウェー広州での試合だった。この試合を水沼のアシストから原博実のゴールで1-0と逃げきる。
▽6万人の大観衆が詰めかけた試合では、中国代表は東北部の遼寧省の長身選手が主力だったが、南部の広州での試合とあって、遼寧省の選手がボールを持つと中国ファンから大ブーイング。そして広州の小柄な選手がボールを持つと大声援という応援スタイルに、他民族国家の複雑さと同時に、サッカーの応援スタイルではヨーロッパに近く、「日本よりもファン、サポーターは先進的だ」と痛感したものだ。
▽そして試合翌日、日本代表は朝6時のバスでホテルを発ち、日本に帰国する。そんな彼らを見送ろうと、寝起きの短パンTシャツ姿でバスの前で待っていると、石井監督は近寄ってきて握手を求めてきた。批判的な記事を書いてきただけに嫌われていると思っていたので意外だったが、それだけ石井監督にとっても会心の勝利だったのだろう。正直、うれしかった。
▽ホームでの第2戦は引き分けさえすれば20年ぶりの五輪出場が決まる。霧雨の降る試合だったと記憶している国立競技場。開始直後に手塚聡が絶好のシュートチャンスを迎えたものの、ピッチの窪地に足を取られて外してしまう。そして試合は0-2で敗れ、石井ジャパンの挑戦は終わった。
▽試合後の記者会見では、どこから紛れ込んだのか1人のファンが最前列で嗚咽をもらしていた。メキシコW杯に続くソウル五輪の最終予選での敗退。奇しくもその日は2年前のメキシコW杯アジア最終予選が行われた10月26日。オールドファンにとっては忘れられない忌まわしい10・26でもある。
▽その後、石井氏は1999年に東京ガスの顧問に就任し、FC東京の創設とJリーグ参入に尽力した。練習場の小平や味の素スタジアムでは、いつもの柔和な顔で孫に近い選手を見守っていた。通夜では読経の前に弟さんが「サッカーに関われて幸せな人生だった」と故人の生前の声を伝えた。改めて石井さんのご冥福をお祈りします。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
▽1975年にはフジタ工業サッカー部(現湘南ベルマーレ)の監督に就任し、マリーニョやカルバリオらを擁して攻撃的なサッカーで、77年と79年にリーグタイトルと天皇杯の2冠獲得を達成した。そしてフジタの監督を退いた1980年からはJSLの常任運営委員に就任し、後のJリーグ創設にも貢献した。
▽通夜にはフジタ時代の主力選手だったマリーニョさんや、日本代表の一員としてソウル五輪予選を戦った奥寺康彦さん、都並敏史さん、水沼貴史さん、金子久さんと谷中治さん、前田治さんら帝京高校OBなど懐かしい顔が揃い、故人を偲んでいた。
▽そんな石井氏にとって忘れられない出来事がある。日本代表の監督時代はフジタの攻撃的なサッカーから一変、守備的なサッカーを採用した。ライバルの韓国は予選に参加していないものの、それでも日本の実力はかなり低いと判断したからだ。
▽当時はセネガルに2-2で引き分けたり、広州市、広東省、上海市ともドローを繰り返したりしていた。監督に就任して強化の時間も少なかったが、ラモスやレナト・ガウショらブラジル人選手のいる日本リーグ選抜に0-1、韓国のクラブチームである大宇に1-2で敗れるなど低調な試合が続いた。
▽そこで当時務めていたサッカー専門誌で石井ジャパンに批判的な記事を書いたところ、西が丘での練習後の囲み取材で質問したら一切無視された。普段は柔和な石井監督が質問を無視したのだから、よほど批判が気に入らなかったのだろう。
▽それでも石井ジャパンはソウル五輪予選を勝ち上がり、中国との最終予選に進出した。第1戦は87年10月4日、アウェー広州での試合だった。この試合を水沼のアシストから原博実のゴールで1-0と逃げきる。
▽6万人の大観衆が詰めかけた試合では、中国代表は東北部の遼寧省の長身選手が主力だったが、南部の広州での試合とあって、遼寧省の選手がボールを持つと中国ファンから大ブーイング。そして広州の小柄な選手がボールを持つと大声援という応援スタイルに、他民族国家の複雑さと同時に、サッカーの応援スタイルではヨーロッパに近く、「日本よりもファン、サポーターは先進的だ」と痛感したものだ。
▽そして試合翌日、日本代表は朝6時のバスでホテルを発ち、日本に帰国する。そんな彼らを見送ろうと、寝起きの短パンTシャツ姿でバスの前で待っていると、石井監督は近寄ってきて握手を求めてきた。批判的な記事を書いてきただけに嫌われていると思っていたので意外だったが、それだけ石井監督にとっても会心の勝利だったのだろう。正直、うれしかった。
▽ホームでの第2戦は引き分けさえすれば20年ぶりの五輪出場が決まる。霧雨の降る試合だったと記憶している国立競技場。開始直後に手塚聡が絶好のシュートチャンスを迎えたものの、ピッチの窪地に足を取られて外してしまう。そして試合は0-2で敗れ、石井ジャパンの挑戦は終わった。
▽試合後の記者会見では、どこから紛れ込んだのか1人のファンが最前列で嗚咽をもらしていた。メキシコW杯に続くソウル五輪の最終予選での敗退。奇しくもその日は2年前のメキシコW杯アジア最終予選が行われた10月26日。オールドファンにとっては忘れられない忌まわしい10・26でもある。
▽その後、石井氏は1999年に東京ガスの顧問に就任し、FC東京の創設とJリーグ参入に尽力した。練習場の小平や味の素スタジアムでは、いつもの柔和な顔で孫に近い選手を見守っていた。通夜では読経の前に弟さんが「サッカーに関われて幸せな人生だった」と故人の生前の声を伝えた。改めて石井さんのご冥福をお祈りします。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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