【六川亨の日本サッカーの歩み】浦和と清水の若手選手に期待2018.04.16 21:30 Mon

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▽昨日の15日はJ1の浦和対清水の試合を取材した。サッカー王国を自負し、かつてはリーグの覇を競ったこともある両チームだが、清水は4試合未勝利、浦和はやっと連勝で立て直してきたが、昨シーズンのACL王者の面影はない。

▽試合は興梠の技ありのヘッド2発で浦和が逃げ切った。ただ、後半になって清水に1点を返されると、大槻監督は3-5-2から5-4-1の超守備的な布陣にシステムを変更。このため後半は清水のボールポゼッション率が高まったものの、攻撃は意思の疎通を欠いてチャンスらしいチャンスを作れず1-2で敗れた。

▽興梠の2点目は右サイドのMF橋岡からのクロスに対し、最初はファーに流れるように動いてマーカーの意識を後ろに向けさせ、一瞬の動きでマーカーの前に走り込みヘッドで決めたもの。ストライカーらしい動きであり、基本的なプレーでもある。

▽試合としては、浦和の超守備的なスタイルに彼らの苦しみを見た思いだった。昨シーズンはもちろん、開幕直後も結果こそ出なかったものの、ボールポジションで相手を圧倒するのが浦和スタイル。しかし、この日は宇賀神や平川を欠いていたこともあるが、かつての面影はまるでない。

▽一方の清水もヤン・ヨンソン監督を招いて守備を再構築しているようだが、J2に降格したシーズンもショートパスを小気味よくつなぐパスサッカーだったのが、こちらも長身FWクリスランにロングボールを当てる攻撃で、かつてのスタイルは見る影もない。そんな試合で楽しめたのが、両チームの若手選手の存在だった。

▽浦和の2点目をアシストした橋岡は浦和ユース出身の18歳で、本職は182センチの長身を生かしたCB(センターバック)である。この日は右アウトサイドMFに起用され、俊足を飛ばしてマーカーを寄せ付けず、興梠の2点目をアシストした。

▽大槻監督いわく、「橋岡は走ります。前回の試合は30回スプリント。しかしポジションが悪いので10回は無駄なスプリントと本人に言った。クロスのアシストはトレーニングの成果が出たと思う」と期待の高さを伺わせた。CBもSB(サイドバック)にもできるのは大きな武器だけに、東京五輪の中心選手(現U-18日本代表)に成長することを期待したい。

▽一方の清水では4-4-2の右SBに起用された立田に注目した。DFとして189センチの長身選手で、こちらもユース出身の本職はCBだ。現在U―21日本代表の19歳で、橋岡同様、東京五輪世代である。

▽Jリーグは20歳前後の選手の成長を促すため、ルヴァン杯では1名の出場を義務づけている。とはいえ、なかなか世代交代が進まないのが現状でもある。そうした中で、橋岡や立田のような新たな発見はうれしい限りだし、東京五輪までケガなく成長して欲しいと思う。

▽さらに清水には、この日ゴールを決めた金子という163センチと小柄なMFがいた。彼はJFAアカデミー福島出身のテクニシャンで、まだ22歳と若いだけに、さらなる成長を期待したい。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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アディショナルタイムの劇的ゴールの理由/六川亨の日本サッカーの歩み

▽先週末の土日は、J1リーグとJ3リーグの最終戦とJ1参入プレーオフ2回戦が行われ、様々なドラマがあった。 ▽まずJ1リーグでは、16位の名古屋が2点のビハインドをジョーのPK2発で追いつき、湘南と2-2のドロー。しかし、この時点では名古屋の16位は変らなかった。ところが等々力で行われた川崎Fvs磐田で、後半アディショナルタイム4分までスコアは1-1だったが、残り30秒で磐田のDF大井がOGを献上。12位の横浜FMから16位の磐田まで勝点41で並んだが、得失点差で磐田が16位に降格し、J1参入プレーオフに回ることになった。 ▽元々、得失点差でハンデのあった磐田だったし、最終戦の相手がリーグ連覇の川崎F。優勝を決めた試合とその後のFC東京戦もアウェイだったため、ホーム最終戦で連覇の報告ということでモチベーションも高いという不利な状況だった。 ▽ただ、まだ降格が決まったわけではない。東京Vとの一戦を勝つか引き分ければ残留が決まる有利な立場に変わりはない。 ▽その東京Vだが、こちらも劇的な勝利だった。横浜FCとの参入プレーオフ2回戦は0-0のまま7分のアディショナルタイムに突入。そしてラスト1分というところで東京Vは右CKにGK上福元が攻撃参加した。ニアサイドに飛び込んだ上福元はフリーでヘディングシュート。これは横浜FCのGK南がよく反応して弾いたが、ドウグラスが押し込んで“虎の子"の1点を守り切った。 ▽GK上福元のゴールとはならなかったが、11月24日のJ1リーグ、清水vs神戸で清水GK六反が同じくアディショナルタイムに左CKから同点ゴールを決めている。 ▽今シーズンはアディショナルタイムを18分も取ったレフェリーがいたり、大井や上福元のように劇的なゴールに絡んだりした選手がいた。このことについて、12年ぶりのJ1復帰の夢を断たれたカズの実兄である鹿児島の三浦泰年監督は、同日のJ3リーグ相模原戦後、「フットサルのようにアディショナルタイムが残り何分なのか表示すべきではないか。その方が両チームの監督、選手、ファン・サポーターも納得すると思う」と話していた。まったく同感である。 ▽さて、J1リーグでのGKのゴールは22年ぶりとなるが、「コーナーキックの時にGKが攻撃参加すると、意外とフリーになれるんですよ」と教えてくれたのがFC東京のGK林だった。その理由は「コーナーキックでは、誰が誰をマークするのか試合前に監督から指示があります。このためGKが上がっても誰もマークに来ません。自分のマークする選手を、監督の指示を守らずフリーにしてしまうことが怖いからです。あとはボールへの入り方ですね。六反選手の動きは参考になりました」とのことだ。 ▽確かに上福元はまったくのフリーでヘディングシュートを放っていた。林も最終戦の浦和戦でCKからのゴールを宣言していたが、残念ながらチームはアディショナルタイムにCKを獲得することはできず、自身の第二子を祝福するゆりかごダンスを演じるチャンスはなかった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.12.03 17:45 Mon
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久米さんの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

▽元日本代表で、現役引退後はJリーグの創設に尽力し、柏や清水、名古屋でGM(ゼネラルマネージャー)としてチームの強化に手腕を発揮した久米一正さんが11月23日、大腸がんのため逝去した。享年63歳という若さだった。 ▽久米さんは浜名高校から中央大学に進み、大学卒業後は日立のMFとしてJSL(日本サッカーリーグ)で活躍。豊富な運動量で攻守に貢献するスタイルは、北澤豪さんと似ていた。現役引退後は日立のマネージャーを務める傍ら、91年からはJSL事務局長としてJリーグの立ち上げに尽力した。昨年亡くなられたJリーグの創設者である木之本興三さんとも親交が深く、彼を慕う“木之本軍団”では宴会部長を務めるなど“気配りの人”でもあった。 ▽柏では西野朗監督を起用し、99年にナビスコカップで優勝。03年から07年までは清水で強化育成部長を務め、当時の監督だった長谷川健太氏は訃報に際し「いなければ私がここでみなさんの前で話すこともない。久米さんがいたからこそJリーグで長らく監督ができました。恩人です。エスパルスで辛いとき『監督、まだまだだから元気を出していきましょう』と暗くならず、明るく引っ張っていただいた。非常に残念ですし、Jに貢献したので、ご冥福を祈りたいと思います」と突然の逝去を惜しんでいた。 ▽08年からは名古屋のGMを務め、10年にはクラブに初となるリーグタイトルをもたらす。優勝を決めた湘南戦後、ピッチで祝福の声をかけると「六ちゃん、まだまだこれからだよ」と黄金時代の創設に意欲を見せていた。 ▽同年からは、JFA(日本サッカー協会)の強化技術委員も兼任し、原博実技術委員長や霜田正浩技術委員を支えた。14年に選手としてはこれといった実績もない霜田氏(元FC東京強化委員)が技術委員長に就任した際は、キャリア不足を指摘する声に対し、「Jクラブで(GMとして監督や選手の)切った張ったを経験していないと技術委員長は務まらない」と擁護。それはJリーグでの経験がない過去の技術委員長の、“机上の空論”を批判しているようにも感じられた。歯に衣きせず発言する、久米さんらしい言葉だったし、正鵠を射ていると納得したものだ。 ▽そんな久米さんの言葉で忘れられないのが、01年のこと。西野監督とは同級生でもあり、日立でもチームメイトだった。しかし当時は柏で監督とGMと立場は違う。第1ステージ終了後、6位に終わったことで久米さんは西野監督に「西野、辞めてくれ」と言わざるを得なかった。 ▽当時のことは西野さんも鮮明に覚えていた。それというのも当日は、お嬢さんの誕生日であり新車の納入日でもあったからだ。奥さんからは「大きくて邪魔になる」と言われながらも乗り続けているドイツ車。盟友である久米さんから宣告された“クビ宣言"は、西野さんにとっても予期せぬものだったのかもしれない。 ▽久米さんは「おまえはいいよな、(日立からの出向で身分が保障されて)“ぬくぬく”だよな」と言われたことは、かなりのショックだった。というのも、当時の親会社である日立は業績不振で、柏に資金を投入することができなかった。このため西野監督の希望する補強を久米GMは実現できなかったからだ。 ▽「西野には申し訳ないことをした。いつかまた、西野を監督に呼びたい」――それが当時の久米さんの本音だった。 ▽その思いは13年後に実現した。久米さんが名古屋のGMに就任して6年後の14年、西野さんは名古屋の監督に迎えられた。残念ながら2シーズン、チームを率いながら好成績を残すことはできず、西野さんと久米さんは16年にチームを去る。 ▽西野さんは18年のロシアW杯で日本代表監督としてベスト16に導く。一方の久米さんは今シーズンから清水のGMに復帰し、これからという時期での訃報だった。Jリーグ誕生後は選手、監督として脚光を浴びることのなかった久米さんだが、GMという職業を確立したのは間違いなく久米さんだったと思う。改めてご冥福をお祈りしたい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.26 16:45 Mon
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なでしこ対ノルウェーで思い出した選手/六川亨の日本サッカーの歩み

▽アジアのクラブNo1チームを決めるACL決勝第2戦が10日にテヘランのアザディ・スタジアムで行われ、第1戦を2-0で勝っていた鹿島は、第2戦もペルセポリスに0-0で引き分け、初のアジア王者に輝いた。 ▽国内タイトル19冠と日本最強クラブと言ってもいい鹿島にとって、唯一足りないのがACLのタイトルだった。Jリーグの黎明期である93年から95年は無冠に終わったものの、その後は黄金時代を築く。4-4-2の布陣から堅守速攻というスタイルは25年間変ることがない。むしろACLを勝ち抜くには格好のスタイルだとも思っていた。それがなぜかACLでは早い段階で脱落してきた。 ▽しかし今大会は準決勝のアウェー水原戦で1-3から同点に追いつく粘りを見せた。準々決勝からの6試合で5ゴールを稼いだ途中加入のセルジーニョの活躍が示すように、今大会は持ち味である堅守よりも攻撃的な姿勢が実を結んだと言える。 ▽12月12日からUAEで開催されるFIFAクラブW杯での活躍が楽しみだが、その前に鹿島は来シーズンのACL出場権獲得のためのリーグ戦と、天皇杯の準々決勝という負けられない試合も残っている。これまでも過密日程の中でACLを勝ち上がってきただけに、今回の優勝がプラスと出るのか、選手のメンタリティーにも注目したい。 ▽翌11日は鳥取のとりぎんバードスタジアムでなでしこジャパン対ノルウェーの親善試合が開催された。現コーチで、中学生でL(女子)リーグにデビューした天才少女の大部由美さんが鳥取出身のため地元での開催となったのだろう。 ▽試合は横山のFKから先制すると、岩渕も2ゴールをあげる活躍で4-1の大勝を飾った。ノルウェーは北欧のスウェーデンと並んで女子サッカーが盛んな国だ。95年の第1回女子W杯で優勝すると、00年シドニー五輪では金メダルに輝いた。過去の対戦成績は4勝3敗とほぼ互角。日本は96年アトランタ五輪、99年第3回W杯はいずれも0-4と大敗した。 ▽しかし07年の親善試合で初勝利(1-0)を奪うと、その後のなでしこジャパンは澤や宮間、永里らが中心選手となってチームを牽引しノルウェーに3連勝と立場は逆転する。そして08年の北京五輪ではベスト4に進出するなど、後のW杯制覇やロンドン五輪銀メダルの礎を築いた。 ▽前出した大部コーチが現役時代にデビューしたチームは日興證券ドリームレディースという名のチームだったが、そのチームで忘れられない選手がいる。ノルウェー代表として152試合出場64ゴールを記録したリンダ・メダレンという選手だ。92年に来日すると、いきなり最多ゴール、最多アシストの記録を達成。95年の第1回女子W杯でも優勝の原動力となっていた。 ▽そんな彼女の本職は婦人警官で、フルタイムで働きつつ、空き時間をサッカーに費やしていた。来日後は5ヶ月ほどLリーグでプレーすると、帰国後の7ヶ月は母国での警察官という生活を送っていたものの、94年からは日興證券ドリームレディースのプロ選手としてプレーし、96年にはチームを初優勝に導いた。 ▽96年から日本人選手もプロとなり、日興證券ドリームレディースはリーグ3連覇を果たしたものの、社業の業績悪化のため絶頂期である98年のシーズン中に廃部を決定。大部を始めサッカーを続ける選手は他チームへの移籍を余儀なくされた。 ▽98年といえば、横浜フリューゲルスの出資会社の1つである佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明。さらに親会社の全日空も赤字に陥ったことで、単独でクラブを支えることができない窮地に陥った。クラブを消滅させないためにJリーグが下した決断は、横浜マリノスとの合併だった。LとJで2つのクラブが消滅した98年でもあった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.12 19:00 Mon
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川口の引退/六川亨の日本サッカーの歩み

▽長らく日本代表の守護神を務めたGK川口能活(43歳)が、今シーズン限りで24年に及ぶ現役生活にピリオドを打つことを表明した。端正なマスクと抜群の反射神経の持ち主であり、礼儀正しい姿勢で多くのファンを虜にした。2001年10月にポーツマスへ移籍する際は、川口の大ファンというシンガーの竹内まりあさんとの食事会のセッティングをした。彼女いわく「ボーイフレンドなら松田直樹くん(故人)、結婚するなら川口能活くんかな」という例えに、素直に納得したものだ。 ▽川口のプレーについて、多くを語る必要はないだろう。アトランタ五輪でブラジルを倒した「マイアミの奇跡」、そしてジーコ・ジャパンで臨んだ04年に重慶で開催されたアジアカップの準々決勝ヨルダン戦のPK戦はいまでも語り草になっている。 ▽ブラジル戦では相手の28本のシュートを神がかり的なセーブで防ぎ、1-0の完封勝利に貢献した。ヨルダン戦では、斜めに助走する中村俊輔と三都主アレサンドロが濡れたピッチに立ち足が横滑りしてシュートを外し、日本は3人目が蹴った時点で1-3と絶体絶命のピンチに陥った。しかし、ここで立ちはだかったのが川口だった。 ▽ヨルダンの4人目のシュートを弾き出すと、5人目のシュートは枠外となり日本は同点に追いつく。しかし6人目の中澤佑二がセーブされ、もう後がなくなったかに見えたが川口が再び奇跡的なセーブを見せる。そして7人目の宮本恒靖が決めると、ヨルダンの7人目のシュートはポストに阻まれ日本の勝利が決まった。 ▽アトランタ五輪ではこんなエピソードもあった。基本的に五輪を取材できるのは通信社、新聞社、テレビ局に限る。雑誌社はどうするかというと、雑誌協会に加盟している社が競技ごとに取材担当者を決め、雑協(雑誌協会)代表取材チームを作り、写真なら雑協の加盟社すべてが使えるシステムになっている。 ▽サッカーなら普段から撮り慣れている専門誌のカメラマンということになり、サッカーダイジェストが派遣することになった。もちろん1人しか取材枠はない。そしてブラジル戦後、多くの雑誌から「川口のプレー写真とアップの写真が欲しい」というリクエストが殺到した。 ▽代表幹事からその旨を伝えられたものの、川口を撮影するなら日本のゴール裏から撮影しなければならないこと、そうするとブラジル戦のような伊東輝悦のゴールは撮れないことを伝えると、代表幹事は迷ったものの、「日本のゴールシーンを優先しましょう。川口の撮影は難しいことを各社に伝えます」ということで、対戦相手のゴール裏で撮影を続けることになった。それほどブラジル戦での川口のプレーは強烈なインパクトを残した。 ▽それから5年後、ポーツマスに移籍した川口を取材するため02年2月15日にポーツマスの練習場を訪れた。久しぶりに会った川口は、レギュラーではないためインタビューは受けられないと断りつつ、「練習や試合で見たことを書くのは六川さんの自由なので、感じたことをそのまま書いて下さい」と取材の許可をもらった。 ▽練習後は彼の運転するクルマで海沿いのレストランで一緒に食事をした。体脂肪を考慮して食べるのはサラダと鶏肉が中心で、食後には現地のファンがサインをねだりに来た。川口が食事を終えるまで待っていたのだ。 ▽そして帰り際、川口は「まだ一人旅をしたことがないので、記者やカメラマンのようにデイパックを担いで出かけるのが夢です」と言った。 ▽日韓W杯前のキャンプで再会した川口に成果を聞いたところ、目を輝かせながら「ロンドンまで行ってきました」と楽しそうに話していた。選手生活の晩年は度重なるケガにも悩まされたが、その都度復活して現役生活にこだわった。4度のW杯出場と、アジアカップ連覇(2000年と04年)、さらにGKとして初の海外移籍を果たすなど、記録にも、記憶にも残る「魂の守護神」だった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.06 17:35 Tue
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湘南の前身とセルジオ越後/六川亨の日本サッカーの歩み

▽先週末の10月27日、埼玉スタジアムで行われたルヴァン杯決勝は、初の決勝戦進出を果たした湘南が、元U-20日本代表でもある杉岡大暉のミドルシュートによる決勝点で横浜FMを1-0で下し、初優勝を遂げた。湘南にとっては1994年の天皇杯優勝(当時は平塚)に次ぎ2個目のタイトル獲得で、実に24年ぶりの快挙達成でもあった。 ▽湘南の1-0リードで迎えたハーフタイム、トイレに並んでいると目の前の湘南サポーターのレプリカユニホームの襟には「50anniversary」とプリントされているのに気がついた。50年ということは、チームが誕生したのはメキシコ五輪の開催された1968年ということになる。 ▽湘南(平塚)の前身は、JSL(日本サッカーリーグ)優勝3回と2度の天皇杯優勝を果たしたフジタ工業であったことはご存じの方も多いだろう。1994年にJリーグへの昇格を果たしたものの、1999年に親会社であるフジタ(株)が撤退を表明したためJ2に降格するなど苦労を重ねてきた。ようやく2001年、総合型スポーツクラブとして再スタートを切り、今日に至っている。 ▽そのフジタ工業サッカー部の前身が藤和不動産サッカー部だった。JSL入りを目指して今から50年前の1968年、栃木県で産声をあげた。チームの育成に、東洋工業でJSL4連覇を達成し、後に日本代表の監督を務めた石井義信氏を招聘。1971年に翌年からのJSL1部(この年にJSL2部もスタート)昇格を果たすと、新たに下村幸男氏を監督に迎えたが、前期は2分け5敗(当時のリーグは8チーム)と最下位に沈んだ。 ▽そんなチームを救ったのが、ブラジルからやって来た日系二世でJSL初となる「元プロ選手」のセルジオ越後だった。来日当時27歳のセルジオは、後期に2勝をあげるなどチームに貢献したが、驚かされたのはブラジル仕込みのテクニックだった。 ▽当時のJSLは、東京では国立競技場や西が丘サッカー場、駒沢陸上競技場などで開催された。今とは比べものにならないものの、とりあえず芝生でプレーすることができた。日本人選手のトラップは、グラウンダーならともかく、高く上がったボールは1メートルほど身体から離れるのが当たり前。しかしセルジオは足に吸い付くようにピタリと止まった。 ▽背後への浮き球でも、振り向きざまに足下に収まるのを目の当たりにし、「頭の後ろにも目があるのではないか」と中学生ながら驚いたものだ。当時のフェイントは、タイミングを図ってタテへ抜け出るか、「マシューズ・フェイント」が全盛だったが、セルジオは足の裏を使った引き技など、これまで見たことのないフェイントの数々でマーカーを翻弄した。特にエラシコはセルジオの得意技で、彼自身はボールが伸び縮みするように動くので「ゴムのフェイント」と名付けていた(親友のリベリーノにこのフェイントを教える代わりに、リベリーノからは「またぎフェイント」のコツを教えてもらった)。 ▽試合の勝ち負けより、彼のプレーを見るだけでスタジアムに足を運ぶ価値があった。残念ながら日本での現役生活は2年でピリオドを打つことになるが、1973年はチームの4位躍進に貢献。引退後はブラジルからカルバリオに藤和不動産サッカー部入りを進めるなど、フジタ工業サッカー部の全盛時代の礎を築いた。 ▽そして1975年のシーズン途中には本拠地を栃木から東京に移すと、チーム名もフジタ工業サッカー部に改称。翌76年に札幌大からマリーニョを迎えると、カルバリオとのコンビで77年は18試合で64点という最多ゴール記録(当時)を作ってJSL1部で初優勝を果たした。 ▽その後、1993年にJFL1部優勝を果たし、Jリーグ正会員加盟が決定すると、チーム名を「ベルマーレ平塚」に改称。94年にJリーグへ昇格すると天皇杯優勝と平塚としての初タイトルを獲得するなど、新たな1歩を踏み出して今日に至っているのは周知の事実である。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.29 17:30 Mon
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