【六川亨の日本サッカーの歩み】ハリル解任2018.04.10 13:30 Tue

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▽ハリルホジッチ監督解任――4月9日、日本サッカー界に激震が走った。ワールドカップ(W杯)を2カ月後に控えての監督交代劇。1997年10月のフランスW杯アジア最終予選、カザフスタン戦でドローに終わったあとに、当時の長沼健JFA(日本サッカー協会)会長が、加茂周監督を更迭し、岡田武史コーチを監督に昇格させて以来のショッキングな監督交代劇だった。

▽これまでも何度か書いてきたように、ハリルホジッチ監督はW杯でジャイアントキリングを起こすために招聘された監督だった。しかし3月のベルギー遠征では選手から縦パスばかりの攻撃に不満が漏れ出した。

▽若手選手が多かったせいもあるが、ハリルホジッチ監督を招へいした霜田正浩 元技術委員長がいれば両者の意見を汲んで進むべきベクトルを合わせることもできただろう。裏返せば、それだけ西野朗 技術委員長と手倉森誠コーチら代表スタッフは機能していなかったことの証明でもある。

▽元々、西野技術委員長は「勝負師タイプ」の監督である。技術委員長に就任した際も、「スーツよりジャージの方が似合っているし、室内にいるよりグラウンドにいた方が気楽だ」と話していた。また、ガンバ大阪の監督を辞めて浪人中も、「自分はマグロのようなもの。回遊魚なので止まったら死んでしまう。ピッチにいないと息苦しい」と本音を漏らしていた。

▽そんな西野氏に、「技術委員長は慣れましたか」と聞くと、決まって「慣れるわけないだろう!」という返事が返ってきた。元々、技術委員長のタイプでなないのだ。JFAのミスマッチは、この時点で明白だった。

▽さらに3月のベルギー遠征では、選手の不満をスポーツ紙に漏らしたスタッフがいたと聞いた。西野氏の代表監督就任により、あるコーチがスタッフから外れるのは偶然なのか疑問が残る。

▽こうした齟齬の積み重ねがハリル・ジャパンを蝕んでいたことは想像に難くない。そして、本来であればハリルホジッチ監督を解任するのは西野技術委員長のはずである。にもかかわらず田嶋会長が「渦中の栗」を拾う格好で解任会見を開いた。田嶋会長にしては珍しいとも思ったが、さすがに西野技術委員長がハリルホジッチ監督の解任をメディアに伝えつつ、「自分が後任監督を務めます」と言うことはできない。解任せざるを得なかった責任の一端は、技術委員長にもあるからだ。

▽先にも書いたように、西野技術委員長は「タイプ」ではない。勝負師である。そんな西野氏を技術委員長に起用した田嶋会長は、ハリルホジッチ監督の更迭も視野に入れて西野氏を抜擢したのではないかと疑いたくなってしまう。

▽かつて加茂氏が日産時代に代表監督待望論があったように、西野氏も過去には「代表監督を日本人にするなら」と待望論があった。名古屋グランパスやヴィッセル神戸の監督で結果を残せなかったため、そうした声は霧消したものの、1996年のアトランタ五輪では西野監督、山本コーチ、田嶋技術委員という間柄でもあった。

▽当時は優勝候補筆頭のブラジルを倒し、「マイアミの奇跡」と賞賛されたものの、グループリーグで敗退し、西野監督は批判にさらされた。その復権を田嶋会長が期待したとしても不思議ではない。12日に予定されている会見で西野監督は何を語るのか。2010年南アフリカW杯の岡田監督以来となる日本人監督だが、昨日、岡田氏がS級ライセンスを返上したことが明らかになったのは、単なる偶然なのだろうか。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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【六川亨の日本サッカーの歩み】代表練習で感じた変わらぬ本田の姿勢

▽5月30日にキリンチャレンジカップでガーナと対戦する日本代表のキャンプが21日にスタート。この日はすでに帰国している海外組の岡崎慎司、本田圭佑、吉田麻也、香川真司、大迫勇也、酒井高徳、原口元気、宇佐美貴史、武藤嘉紀、浅野拓磨の10選手が1時間10分ほどの練習で汗を流した。 ▽ただし、岡崎だけは終始別メニューで、ランニングやサイドステップ、バックステップ、ストレッチなどの軽めの練習。2月上旬に膝を、4月には足首を傷めて実戦から遠ざかっていたが、走り方にもぎこちなさを感じさせ、全力でプレーできる状態ではなかった。30日のガーナ戦に間に合うのかどうか疑問であり、6月19日のコロンビア戦までに万全の状態に回復すると判断できなければメンバー外となる可能性もあるかもしれない。 ▽練習終了後は西野監督が囲み取材に応じ、本田について質問されると「非常にいいパフォーマンス。彼らしいスタイルで入ってきたかな」と高く評価していた。その本田、9分間のフリーランニング後、早川コンディショニングコーチから「テンポを上げて6分間」と指示が出て5分が経過し「そろそろダウン」と言われても、浅野と競うようにランニングのペースを上げて酒井高を追い抜くなどアグレッシブに練習に取り組んでいた。 ▽ただし、練習終了後のミックスゾーンでは、他の選手が報道陣の取材に応じているのに、本田だけは「お疲れ様」と言って足早に通り過ぎた。この日のミックスゾーンの目玉は本田、岡崎、香川の“ビッグ3"だっただけに、報道陣は肩すかしを食らった格好だ。ただ、それも本田らしいと思った。 ▽思い出されるのは8年前、南アW杯前にスイスのサースフェーで行われた事前合宿だ。当時のエースは中村俊輔だったが、持病の足首痛に悩まされ、早川コンディショニングコーチが付きっきりで1人別メニューの練習を続けていた。当時のシステムは4-4-2で右MFが中村俊の定位置だった。もしも中村俊が間に合わなければ、そのポジションは同じレフティーの本田が起用される可能性が高かった。 ▽中村俊はなかなか取材できないため、必然的に練習後の報道陣は本田にコメントを求めた。当初は取材に応じていた本田だったが、ある日のこと、囲んだ報道陣に対して自分から口を開き、「毎日毎日、質問されても同じ練習をしているので答えようがない。これが試合後や試合前には違ったことを話せるかもしれない。なので、これからは自分から話すことがあったら話します」といった趣旨のコメントで報道陣の理解を求めた。 ▽その時の本田は24歳で、まだチームの中心選手とは言えなかった。それでも当時の状況から本音を語ったことに、報道陣を無視した中田英寿との違いに感銘を受けたものだ(スポーツ紙は反発したが)。 ▽たぶん中村俊のコンディションが良ければ、毎日の取材の取材に応じ、今日の練習の目的や自分の役割、チームメイトのエピソードなど日替わりで話題を提供しただろう。それだけリップサービスのできる余裕があった。 ▽パーソナリティーの違いと言ってしまえばそれまでだが、本田は8年経ってもストイックな姿勢は変わらないことを再確認した21日の練習取材でもあった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.05.22 15:20 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】J開幕から25年。もう一度聞きたいチアホーン

▽昨日14日は、ロシアW杯に臨む選手35名の予備登録が行われた。ただ、これはFIFA(国際サッカー連盟)に提出する必要があるだけのため、JFA(日本サッカー協会)はリストを公表しないし、チームにも連絡はないそうだ。明日はルヴァン杯があるし、週末にはJ1リーグの試合があり、代表チームの活動は週明けとなる。このため、あえて公表する必要はないと判断したのだろう。FIFAもJFAの意向を受けて公式サイトでの公表を控えている。 ▽昨日、取材に応じた西野監督は香川や岡崎、本田の招集を示唆したようだが、18日にはキリン杯に臨む28名を発表する予定だ。当然35名の中から絞られた28名のため、予備登録の35名を発表する必然性はない。そして18日に発表される28名から、5名が篩いにかけられる。先週末のJ1リーグの報道は、試合の結果より代表候補の選手のプレーがクローズアップされていた。おそらく今週末のJ1リーグでは、その傾向にますます拍車がかかるだろう。 ▽といったところで、今日5月15日はJリーグが誕生して25年の節目を迎えた。25年前の今日、国立競技場でヴェルディ川崎vs横浜マリノスの開幕戦が行われたことは周知の事実。そして翌16日に残りの4試合が行われ、カシマスタジアムでは鹿島が名古屋に5-0と圧勝。ジーコはハットトリック第1号の活躍でチームを牽引し、サントリーシリーズの覇者となった ▽そのジーコが25周年記念のイベントのため来日しているが、Jリーグの村井チェアマンは派手な記念イベントを開催する気はないようだ。14日はJリーグが「社会と連携していく未来を探る」ためのワークショップを開催するにとどめた。過去を振り返るのではなく、あくまで未来志向の村井チェアマンらしい発想によるイベントだった。 ▽話は変わり、海外ではユベントスが7連覇を達成し、バルセロナやバイエルンなど「いつもの」チームが順当にリーグを制覇している。ところがJリーグは、首都圏のビッグクラブが毎年優勝争いを演じることの少ない、珍しいリーグでもある。 ▽記念すべきJリーグの開幕戦に登場し、初代の王者となったヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)は2009年にJ2リーグに降格して以来、1度もJ1に復帰できずに低迷が続いている。毎年のように主力選手を放出しては、クラブの存続に懸命の努力を続けている。 ▽同じことは「オリジナル10」の仲間であるジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド千葉)にも当てはまり、こちらは1年遅れの2010年にJ2に降格してから、昇格プレーオフに進んだこともあったが、最後の壁を突破できずJ2に甘んじている。 ▽ジェフは元々、JSL(日本サッカーリーグ)の名門・古河とJR東日本がタッグを組んだ最強チームのはずだった。しかし両社の関係は必ずしも良好とは言えず、先週、味の素スタジアムで会った元強化部長の川本氏は「もう古河OBは1人も残っていません」と言うように、川淵、小倉の元JFA会長や現会長の田嶋氏ら、多くの優秀な人材が流出した。25年も経てば、古河サッカー部の関係者の多くは定年を迎えている。そして現チームの主導権はJR東日本の関係者が握っているだけに、近年の低迷も致し方ないのかもしれない。 ▽そんなチームでも川本氏は愛着があるのか、「1度でいいから岡ちゃん(岡田武史・元日本代表監督)にジェフの監督をやってもらいたかった」と漏らした。もしかしたら岡田監督なら、低迷するチームを立て直すことができたかもしれないと思わずにはいられない。 ▽いまでは考えられないかもしれないが、25年前はジェフの試合でも国立競技場が満員の観客で埋まり、「カテゴリー1」というJリーグのオフィシャルショップで売られていたチアホーンの甲高い音がスタジアムにこだましていた。 ▽チームカラーで塗装したチアホーンは、一時は品切れになるほど爆発的に売れた。しかしスタジアム近隣の住民による騒音の苦情からチアホーンの販売は中止され、各チームもファン・サポーターに使用の自粛を求めたことで、短期間でチアホーンは姿を消した。あのチアホーンはどこにいったのか。いまとなっては懐かし、Jリーグ開幕の熱狂を想起させる、もう1度聞きたい音色でもある。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.05.15 19:20 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】元日本代表監督の石井氏とのエピソード

▽去る4月26日、元日本代表監督の石井義信氏(享年79歳)がご逝去され、通夜が5月1日に催された。石井氏は広島県生まれで、高校卒業後に一般試験で東洋工業(現マツダ)に入社。サッカーは高校時代に始めたが、東洋工業蹴球部(現サンフレッチェ広島)でレギュラーに定着すると、1965年に創設されたJSL(日本サッカーリーグ)では67年まで3連覇を達成すると、65年と67年の天皇杯優勝にも貢献した。 ▽1975年にはフジタ工業サッカー部(現湘南ベルマーレ)の監督に就任し、マリーニョやカルバリオらを擁して攻撃的なサッカーで、77年と79年にリーグタイトルと天皇杯の2冠獲得を達成した。そしてフジタの監督を退いた1980年からはJSLの常任運営委員に就任し、後のJリーグ創設にも貢献した。 ▽そんな石井氏が1986年に日本代表の監督に抜擢される。前任の森孝慈監督(故人)は85年10月26日のメキシコW杯アジア最終予選の第1戦に続き、11月3日の第2戦でも韓国に敗れ、W杯出場の夢を断たれる。森監督は強化のためにはプロ化が急務と考え、まず監督のプロ化の必要性を訴えたもののJFA(日本サッカー協会)は時期尚早と判断。森氏は代表監督から退いたため、石井氏に白羽の矢が立った。 ▽通夜にはフジタ時代の主力選手だったマリーニョさんや、日本代表の一員としてソウル五輪予選を戦った奥寺康彦さん、都並敏史さん、水沼貴史さん、金子久さんと谷中治さん、前田治さんら帝京高校OBなど懐かしい顔が揃い、故人を偲んでいた。 ▽そんな石井氏にとって忘れられない出来事がある。日本代表の監督時代はフジタの攻撃的なサッカーから一変、守備的なサッカーを採用した。ライバルの韓国は予選に参加していないものの、それでも日本の実力はかなり低いと判断したからだ。 ▽当時はセネガルに2-2で引き分けたり、広州市、広東省、上海市ともドローを繰り返したりしていた。監督に就任して強化の時間も少なかったが、ラモスやレナト・ガウショらブラジル人選手のいる日本リーグ選抜に0-1、韓国のクラブチームである大宇に1-2で敗れるなど低調な試合が続いた。 ▽そこで当時務めていたサッカー専門誌で石井ジャパンに批判的な記事を書いたところ、西が丘での練習後の囲み取材で質問したら一切無視された。普段は柔和な石井監督が質問を無視したのだから、よほど批判が気に入らなかったのだろう。 ▽それでも石井ジャパンはソウル五輪予選を勝ち上がり、中国との最終予選に進出した。第1戦は87年10月4日、アウェー広州での試合だった。この試合を水沼のアシストから原博実のゴールで1-0と逃げきる。 ▽6万人の大観衆が詰めかけた試合では、中国代表は東北部の遼寧省の長身選手が主力だったが、南部の広州での試合とあって、遼寧省の選手がボールを持つと中国ファンから大ブーイング。そして広州の小柄な選手がボールを持つと大声援という応援スタイルに、他民族国家の複雑さと同時に、サッカーの応援スタイルではヨーロッパに近く、「日本よりもファン、サポーターは先進的だ」と痛感したものだ。 ▽そして試合翌日、日本代表は朝6時のバスでホテルを発ち、日本に帰国する。そんな彼らを見送ろうと、寝起きの短パンTシャツ姿でバスの前で待っていると、石井監督は近寄ってきて握手を求めてきた。批判的な記事を書いてきただけに嫌われていると思っていたので意外だったが、それだけ石井監督にとっても会心の勝利だったのだろう。正直、うれしかった。 ▽ホームでの第2戦は引き分けさえすれば20年ぶりの五輪出場が決まる。霧雨の降る試合だったと記憶している国立競技場。開始直後に手塚聡が絶好のシュートチャンスを迎えたものの、ピッチの窪地に足を取られて外してしまう。そして試合は0-2で敗れ、石井ジャパンの挑戦は終わった。 ▽試合後の記者会見では、どこから紛れ込んだのか1人のファンが最前列で嗚咽をもらしていた。メキシコW杯に続くソウル五輪の最終予選での敗退。奇しくもその日は2年前のメキシコW杯アジア最終予選が行われた10月26日。オールドファンにとっては忘れられない忌まわしい10・26でもある。 ▽その後、石井氏は1999年に東京ガスの顧問に就任し、FC東京の創設とJリーグ参入に尽力した。練習場の小平や味の素スタジアムでは、いつもの柔和な顔で孫に近い選手を見守っていた。通夜では読経の前に弟さんが「サッカーに関われて幸せな人生だった」と故人の生前の声を伝えた。改めて石井さんのご冥福をお祈りします。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.05.07 22:25 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】過去にもあった代表監督解任に歴代JFA会長は…

▽4月7日に解任された元日本代表監督のハリルホジッチ氏が、4月27日に記者会見を開いた。同氏は約1時間20分にわたって熱弁を振るったが、内容は志半ばでの解任による悔しさと、解任理由がコミュニケーション不足であったことに疑問を呈した。そして、なぜ田嶋会長や西野技術委員長が「ハリル、問題が起こっているようだがどうなんだ」と一声相談するなり、フォローがなかったことに失望の念を表した。 ▽コミュニケーション不足を解任の理由に挙げられては、ハリルホジッチ氏も納得できないだろう。なぜならキャンプ中は毎晩、午後9時から15分間隔で、GK陣、DF陣、MF陣、FW陣とミーティングを開いていたからだ。海外組とも現地で試合を視察したり、電話などで連絡を取り合ったりしていた。 ▽一部の選手からは「ハリルではW杯を戦えない」という声も上がったそうだ。しかし、試合で使ってもらえない選手から不満が出るのは万国共通のはず。そのために西野技術委員長がいたはずだが、どうやらうまく機能していなかったようだ。 ▽JFAが代表監督を任期途中で解任するのは、これで2度目だ。最初の解任は97年10月4日、フランスW杯のアジア最終予選でカザフスタンと引き分けたため、当時の加茂監督が更迭された。その伏線は95年の暮れに遡る。フランスW杯のアジア予選に向け、加藤久技術委員長や田嶋技術委員らは、「加茂氏ではW杯予選を勝ち抜けない」と判断し、ネルシーニョ氏を次期代表監督に推薦した。 ▽しかし、年俸があまりに高額のため長沼会長(故人)はネルシーニョ氏の招聘を断念。いわゆる「腐ったミカン事件」である。これは後に判明したことだが、どうやら契約書が当初のものと書き換えられていたようで、それを長沼会長は「知らなかった」と後に述懐していた。 ▽加茂監督の続投は決まった。しかしながら記者から「もしもW杯の出場権を逃したらどう責任を取るのか」という質問に、長沼会長は決然と「加茂でフランスに行けなかったら、私が会長を辞める」と断言した。 ▽結果的に、加茂監督は任期途中で更迭された。その決断を下したのは、他ならぬ長沼会長だった。加茂ジャパンをサポートしつつも、最終的には苦渋の決断をしなければならなかった。長沼氏の責任を問う声に対しては、「任期満了をもって責任を全うする。それがサッカー界におけるやり方だ」と反論し、W杯後に会長職を岡野氏(故人)に譲った。 ▽そして4年後にも代表監督解任の危機はあった。トルシエ監督は99年のコパ・アメリカで惨敗を喫する。その他にも決定力不足や強化推進本部とのコミュニケーション不足、エキセントリックな性格からくる選手やメディアとの軋轢など様々な問題を抱えていた。 ▽強化推進本部の7人による投票の結果は、4対3でトルシエ監督の解任を決定。一般紙にも「トルシエ監督解任、W杯はベンゲル監督」と報じられた。ただ、最終的な結論は岡野会長に一任されたことで状況は変わる。強化推進本部に監督解任の決定権はなく、あくまで理事会の承認が必要だったからだ。 ▽そして岡野会長はトルシエ監督の留任を決定し、同氏に万全のサポート態勢を約束した。留任の理由については自著の「雲を抜けて、太陽へ!」で次のように説明している。 ▽「私自身はトルシエ氏の欠点を知っていたが、世界ユース選手権で日本を初めて準優勝に導いただけでなく、大会中に選手を孤児院に訪問させるなど、サッカー以外の体験をさせる指導方針を評価していた。また、オリンピック関係の会議でフランス人役員の絶対に謝らない気質を知っていたし、かつてのドイツのデットマール・クラマーの来日当初、通訳を務めた経験上、外国人コーチの孤立感を理解できた」 ▽コミュニケーション不足や選手との対立は、トルシエ監督の時代が最も激しかった。それをサポートしたのが現場では山本コーチであり、岡野会長だった。「フランス人気質と外国人コーチの孤立感」を理解したからこそ下せた決断である。 ▽長沼会長と岡野会長には、日本サッカーの将来を見据えた揺るぎない決断と、無限の包容力を感じるのは私だけではないだろう。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.30 16:00 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】日曜のJ2取材は町田で多くの新鮮な発見

▽22日は、J2のFC町田ゼルビアvsレノファ山口FCの試合を取材した。今シーズンから山口の監督に就任した霜田正浩氏は旧知の間柄ながら、なかなか山口まで取材に行くことは難しい。そこで町田ならと取材を思い立った。 ▽カードとしても上位争いをしている2チームだけに悪くはない。といったところで、ヴァイッド・ハリルホジッチ元監督が来日し、27日に記者会見を開くという。霜田氏は技術委員時代にハリルホジッチ元監督を招へいした当事者だ。このためJ2にしては異例とも言えるスポーツ紙の記者が集結した。誰もがハリルホジッチ元監督について霜田監督からコメントを引き出したかったのだろう。 ▽残念ながら試合後の記者会見では、町田の広報から「質問は今日の試合に関してのみお願いします」というガードがあり、帰り際に「ハリルとは電話で話しました」と聞くのが限界だった。 ▽さて、町田である。埼玉に近い板橋区から車で約2時間弱。やはり遠い。中央高速の府中インターまで、空いていれば40分もかからないが、インターを降りてからの一般道が長い。一度、神奈川県に入り、再び東京都に入る。電車なら小田急線の鶴川駅からバスかタクシーと、アクセスに悩まされるスタジアムでもある。 ▽しかしながら時間に余裕を持って到着したため、町田名物のピリ辛と甘い豚角煮のトッピングされた「YASS(ヤッス)カレー」を堪能した。2012年のJリーグ・スタジアムグルメ大賞に輝いた一品だ。そして晴天のグルメ広場では、カレーを食べながら特設ステージで地元・町田出身の7人組のコーラスグループ、『Machida Girls′Choir(まちだガールズクワイア)』の歌声も楽しめた。オリジナル曲もあれば、懐かしいキャンディーズや松田聖子の歌もある。 ▽ステージ後方では町田のユニホームを着た男性サポーターが熱い声援を送り、ステージ終了後はグッズを購入したファンと記念撮影に興じている。これはこれで、町田にJリーグが根付いていることを感じたし、関係者の努力の賜物でもあるだろう。 ▽試合は前半の町田の猛攻をしのいだ山口が先制。しかし後半立ち上がりに町田のFW杉森考起が同点弾を冷静に決める。しかし山口は後半25分にPKから再びリードを奪い、その後の町田の猛攻を跳ね返して2-1の勝利を収めた。 ▽といったところで、町田の同点ゴールを決めた杉森の名前を覚えているファンは少ないのではないだろうか。名古屋グランパスの下部組織出身で、17歳でプロ契約を結んだのはクラブ史上初。それよりも、14年ブラジル・ワールドカップ(W杯)でトレーニーとして参加した選手と紹介した方が「ああ、そんな選手もいたね」と思い出すかもしれない。 ▽ブラジルW杯では坂井大将(現アルビレックス新潟)とともにトレーニングパートナーに選ばれ、大会直前合宿から本大会まで帯同。イトゥーのキャンプ地では紅白戦要員に借り出されたり、チームの全体練習終了後は霜田技術委員とマンツーマンで指導を受けたりしていた。 ▽W杯のトレーニングパートナーに選ばれるのだから、将来を嘱望された選手でもあるだろう。しかし彼らがその後、アンダーカテゴリーの代表チームに名を連ねたものの、日本代表の一員になることはなく現在に至っている。ここらあたりもサッカーというチームスポーツの難しさかもしれない。指導者との出会い、チームとの出会いで環境は激変するからだ。 ▽霜田監督に会うのが目的の取材だったが、現場には様々な驚きや新鮮な発見がある。やはり試合はライブで見るに限る。そう、改めて感じたJ2取材の日曜日だった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.24 10:30 Tue
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