【六川亨の日本サッカーの歩み】浦和のジンクス2018.03.05 17:30 Mon

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▽J1リーグはまだ2試合を消化したに過ぎず、現在の順位はあくまで暫定に過ぎない。とはいえ今シーズンはちょっとした“異変”が起きているようだ。まず昨シーズンのアジア王者である浦和が、開幕2試合で1分け1敗の未勝利により13位と出遅れた。

▽昨シーズンのメンバーがほとんど残り、ドリブラーのマルティノスと重量FWの武富を補強して、チームの完成度も高いと思われた。FC東京との開幕戦は後半早々に失点したものの、すぐに槙野が同点ゴールを決めるなど勝負強さを見せた。第2節の広島戦では先制しただけに、勝利は確実かと思われたが、予想外の逆転負け。開幕2戦で未勝利は08年以来10年ぶりで、当時のオジェック監督は前年にACLで優勝しながら、開幕2試合で解任された。

▽浦和以外にも、Jリーグで優勝経験のある磐田とG大阪は2戦2敗で18位と17位に沈んでいる。代わって首位に立っているのが開幕2連勝の名古屋で、同じ勝点6で広島と仙台が続いている。

▽正直、今シーズンの名古屋は降格候補と思っていた。というのも、2月10日に沖縄糸満市で行われたFC東京との練習試合では、DF陣が連係ミスから何度もボールを奪われたからだ。風間監督のスタイルなのだろうが、GKは必ずペナルティーエリアの外にいるDFにパスを出し、DF陣からのビルドアップにトライ。しかしFC東京のプレスに簡単にボールを失い、GKのランゲラックと1対1になるシーンが3回もあった。いずれもGKの好プレーで失点を免れたが、FC東京のGKやDFらのロングパス1本で簡単に裏を取られるシーンも多く、決勝点もそうしたプレーから生まれた。

▽試合後の風間監督は「いまはやろうとしていることにトライしている。成功も失敗もあるが、たくさんトライすることが大事。背後を狙われたのもトライしているから。体のコンディション作りと頭を使うことをやってきたので、整理できて全員が1歩前進した」と収穫を口にした。ただ、川崎Fと比較すると「まだまだ」と風間スタイルの完成は道半ばであることを認めた。

▽その試合のメンバーと第2節の磐田戦では4人が代わっていて、一番の違いは昨シーズンのブラジル・リーグ得点王でMVPのFWジョーの存在だろう。ただ、1人の選手の存在でチームが劇的に変わるとも思えない。ここしばらくは注目したい名古屋である。

▽話は変わり、J1リーグは2005年より18チームになり、1シーズン制を2014年まで採用した。その後2年間は2シーズン制に戻し、再び17年から1シーズン制になった。その間の優勝チームは鹿島が3回、G大阪と広島が2回、川崎F、柏、名古屋、浦和が各1回となっている。

▽そこで興味深いのが、開幕戦で浦和と対戦したチームのリーグ制覇が、開幕戦の勝敗に関係なく5回もあることだ。まず06年は浦和が優勝したので当然として(開幕戦は1-1G大阪)、09年は鹿島が浦和と対戦している(2-0浦和)。そして12年からは3年連続して広島(1-0浦和)、広島(1-2浦和)、G大阪(0-1浦和)と、優勝チームはいずれも開幕戦で浦和と対戦しているのだ。

▽この法則でいくと18年はFC東京ということになるのだが、果たして結果はどうなるのか。ちなみに開幕戦で横浜FMは3回も浦和と対戦している(07、08、17年)が、残念ながらタイトルは取れなかった。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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レフェリーブリーフィング/六川亨の日本サッカーの歩み

▽12月17日、今年最後で第6回目となるレフェリーブリーフィングが開催された。6週間ぶりの開催となったが、この間にJ1、J2、J3の各リーグとルヴァン杯で試合後に意見交換の対象になったプレーは340シーンあり、判定が間違いだったことは92シーン、率にして32%だったことが判明した。 ▽サッカーは、一度下った判定は、例えそれがミスジャッジでも覆ることはない。とはいえ、結果に重大な影響を及ぼしたミスジャッジが2件あったことが報告された。 ▽まずは明治安田生命J1リーグの第34節、名古屋グランパス対湘南ベルマーレ戦である。結果は2-2のドローに終わり、勝点を分け合うことで名古屋と湘南は勝点41で並び、同勝点のジュビロ磐田が得失点差でプレーオフに回った。 ▽名古屋は0-2のビハインドからジョーのPK2発で同点に追いついた。まず66分にジョーが倒されたように見えて主審は「後ろの選手が押し倒した」と判断してPKを取った。しかしVTRで確認したところ、「背後の選手は強く押していない。クロスボールも高く、選手はコントロールできない」(上川インストラクター)として、両クラブには「反則ではない」と伝えたことを明かした。 ▽このゴールにより名古屋は反撃に出て、75分にジョーのPKから同点に追いついたが、1点目が消えていたら名古屋が同点に追いついていたのかどうか、疑問の残るところである。もしも1-2で試合が終了したら、名古屋がプレーオフに回ったことになる。結果的に磐田はプレーオフを制してJ1残留を果たしたが、これはきわめてデリケートな判定だったと言えるだろう。 ▽そしてもう1件は、世界的にも話題になったJ1第33節の清水エスパルス対ヴィッセル神戸戦におけるAT(アディショナルタイム)18分の椿事である。すでにネット当で上川氏は状況説明をしているが、改めて当時の状況を再現しよう。 ▽試合は神戸が3-2とリードして後半アディショナルタイム4分に突入した。この場合、アディショナルタイムは「4分から4分59秒まで」(上川氏)というのが通例だと言う。ところが残り10秒足らずで空中戦の激突により清水の選手が倒れた。 ▽主審は「ボールにプレーしたので反則ではない」と判断してプレーオンとしたが、その後プレーを中断して治療に当たらせた。治療時間は4分20秒だったが、その時間を主審はATに加算し、選手と副審にもその旨を伝えたところ、第1副審以外は納得してしまった。疑義を呈した第1副審の声はスルーされてしまった。 ▽本来なら清水の選手の治療後、プレー再開となった「AT4分50秒くらいで終わらせる試合」(上川氏)を、さらに空中戦でポドルスキーのファウルにより中断して治療に3分近く要し、これも主審はATに追加。さらに神戸FWウェリントンの騒動でトータルして11分30秒ほど試合は止まった。 ▽その結果、「ランニングタイムとして98分くらいで試合終了とすべきだった」(上川氏)試合が19分も長引いたというわけだ。 ▽小川審判委員長は「正当に終わっていれば、神戸が3-2で勝ち、警告も負傷もなかった。このレベルにあるレフェリーは正しくやらないといけない。本来なら終わっている試合を終わらせられなかった。こうしたことは起こしてはいけない」と苦言を呈した。 ▽結果的に清水戦のドローによりJ1残留を決めた格好の神戸だが、禍根を残したことは間違いない。それを主審のミスジャッジであることを認めた審判委員会のレフェリーブリーフィングでもあった。 ▽過去にこうした例は一度もないと上川、小川の両氏が話したように希有な例でもある。それを包み隠さず公表する審判委員会の姿勢を今回も評価したいと思うので、紹介させていただいた次第である。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.12.18 13:00 Tue
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リベリーノのFKを田口が再現/六川亨の日本サッカーの歩み

▽12月9日に行われた第98回の天皇杯決勝は、浦和レッズがベガルタ仙台を1-0で下して第86回大会以来、12大会ぶり7度目(前身の三菱時代を含む)の優勝を果たした。決勝点は前半13分、右ショートコーナーからのクリアを宇賀神が右足ボレーで決めて奪取。アウトサイドにかけたシュートは曲がりながら落ちる見事な一撃で、日本代表GKシュミット・ダニエルもノーチャンスの鮮やかな一撃だった。 ▽その前日にはヤマハスタジアムでのJ1参入プレーオフ決定戦、ジュビロ磐田対東京ヴェルディを取材。試合は磐田がPKとFKから2点を奪い、J1残留を果たした。順当な結果とも言えるし、毎年のように主力選手をシーズンオフに引き抜かれる東京Vにしては、よく決定戦まで勝ち上がったと言ってもいいのではないだろうか。 ▽残念ながら11年ぶりのJ1復帰は果たせなかったが、11年前とは事情が違うので致し方ないのかもしれない。東京Vは2005年にJ1で17位となりJ2へ降格した。06年シーズンはラモス瑠偉氏を監督に迎えたものの7位に沈む。 ▽そこでチーム関係者は、クラブの“顔”とも言えるラモス監督に泥を塗ることはできないと判断し、出した結論は「監督が何もしなくてもJ1に昇格できるチーム作り」として大型補強に乗り出した。 ▽その後ブラジル代表として活躍することになるフッキとディエゴの外国人助っ人に加え、名波、服部、土屋らJリーグで実績十分の選手を獲得。その効果もあり07年は開幕から4勝1分けで順調な滑り出しを見せた。 ▽しかし第7節からワーストタイの7連敗を喫し、ラモス監督の解任説も流れたが、その後は立て直し、リーグ終盤は16試合負けなしで2位を確保。フッキが37ゴールで得点王に輝くなどしてJ1昇格を果たした(翌年ラモス氏はエグゼクティブダイレクターに就任し、柱谷哲二氏が監督に就任も、チームはJ2に降格)。 ▽新たなスポンサーを獲得したとはいえ、東京Vは往時のような大型補強は望むべくもないだろう。それでも“身の丈”に合ったクラブ経営と、選手育成でかつての黄金時代を取り戻して欲しいと願うファンは多いに違いない。 ▽話を参入プレーオフ決定戦に戻すと、2点目となった田口のFKを紹介したい。ゴール前やや右24メートルだっただろうか。壁を作った東京VのDF陣の間に2人の磐田選手が割って入った。そして田口のシュートは、壁の間に入った2人の選手が屈んだ空間を通過し、GKの手前でワンバンドして左スミに決まった。 ▽壁の間の味方のスペースを通過してゴールを初めて決めたのは、1974年の西ドイツW杯でブラジル代表のMFリベリーノが初めてだったと記憶している。前回大会で引退したペレの背番号10を受け継いだリベリーノは、2次リーグの東ドイツ戦で6人の壁に割って入ったFWジャイルジーニョが屈んだ隙間を通して決勝点を決めた。神業とも言えるゴールだった。 ▽あれから4半世紀、同じスーパーゴールを見ることができて、興奮もした。ところが試合後の田口は「いつも味方を立たせてGKからに見にくくさせるのをやっていましたし、壁の間を狙って練習していました。狙い通りです」とスーパーゴールにも冷静だった。 ▽このゴールを初めて決めたリベリーノについても「知りません」と素っ気ない返事。それよりも「チーム全員で必ず残留を決める。チームで一丸となって、強い気持ちで1週間練習してきた結果だと思います」と、自身のゴールよりJ1残留に力を込めていた。 ▽それでもスーパーゴールに変わりはないし、J1に残留したことで、また同じゴールを見られるかもしれない。そして対戦相手は壁の作り方を工夫した方がいいだろう。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.12.11 12:30 Tue
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アディショナルタイムの劇的ゴールの理由/六川亨の日本サッカーの歩み

▽先週末の土日は、J1リーグとJ3リーグの最終戦とJ1参入プレーオフ2回戦が行われ、様々なドラマがあった。 ▽まずJ1リーグでは、16位の名古屋が2点のビハインドをジョーのPK2発で追いつき、湘南と2-2のドロー。しかし、この時点では名古屋の16位は変らなかった。ところが等々力で行われた川崎Fvs磐田で、後半アディショナルタイム4分までスコアは1-1だったが、残り30秒で磐田のDF大井がOGを献上。12位の横浜FMから16位の磐田まで勝点41で並んだが、得失点差で磐田が16位に降格し、J1参入プレーオフに回ることになった。 ▽元々、得失点差でハンデのあった磐田だったし、最終戦の相手がリーグ連覇の川崎F。優勝を決めた試合とその後のFC東京戦もアウェイだったため、ホーム最終戦で連覇の報告ということでモチベーションも高いという不利な状況だった。 ▽ただ、まだ降格が決まったわけではない。東京Vとの一戦を勝つか引き分ければ残留が決まる有利な立場に変わりはない。 ▽その東京Vだが、こちらも劇的な勝利だった。横浜FCとの参入プレーオフ2回戦は0-0のまま7分のアディショナルタイムに突入。そしてラスト1分というところで東京Vは右CKにGK上福元が攻撃参加した。ニアサイドに飛び込んだ上福元はフリーでヘディングシュート。これは横浜FCのGK南がよく反応して弾いたが、ドウグラスが押し込んで“虎の子"の1点を守り切った。 ▽GK上福元のゴールとはならなかったが、11月24日のJ1リーグ、清水vs神戸で清水GK六反が同じくアディショナルタイムに左CKから同点ゴールを決めている。 ▽今シーズンはアディショナルタイムを18分も取ったレフェリーがいたり、大井や上福元のように劇的なゴールに絡んだりした選手がいた。このことについて、12年ぶりのJ1復帰の夢を断たれたカズの実兄である鹿児島の三浦泰年監督は、同日のJ3リーグ相模原戦後、「フットサルのようにアディショナルタイムが残り何分なのか表示すべきではないか。その方が両チームの監督、選手、ファン・サポーターも納得すると思う」と話していた。まったく同感である。 ▽さて、J1リーグでのGKのゴールは22年ぶりとなるが、「コーナーキックの時にGKが攻撃参加すると、意外とフリーになれるんですよ」と教えてくれたのがFC東京のGK林だった。その理由は「コーナーキックでは、誰が誰をマークするのか試合前に監督から指示があります。このためGKが上がっても誰もマークに来ません。自分のマークする選手を、監督の指示を守らずフリーにしてしまうことが怖いからです。あとはボールへの入り方ですね。六反選手の動きは参考になりました」とのことだ。 ▽確かに上福元はまったくのフリーでヘディングシュートを放っていた。林も最終戦の浦和戦でCKからのゴールを宣言していたが、残念ながらチームはアディショナルタイムにCKを獲得することはできず、自身の第二子を祝福するゆりかごダンスを演じるチャンスはなかった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.12.03 17:45 Mon
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久米さんの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

▽元日本代表で、現役引退後はJリーグの創設に尽力し、柏や清水、名古屋でGM(ゼネラルマネージャー)としてチームの強化に手腕を発揮した久米一正さんが11月23日、大腸がんのため逝去した。享年63歳という若さだった。 ▽久米さんは浜名高校から中央大学に進み、大学卒業後は日立のMFとしてJSL(日本サッカーリーグ)で活躍。豊富な運動量で攻守に貢献するスタイルは、北澤豪さんと似ていた。現役引退後は日立のマネージャーを務める傍ら、91年からはJSL事務局長としてJリーグの立ち上げに尽力した。昨年亡くなられたJリーグの創設者である木之本興三さんとも親交が深く、彼を慕う“木之本軍団”では宴会部長を務めるなど“気配りの人”でもあった。 ▽柏では西野朗監督を起用し、99年にナビスコカップで優勝。03年から07年までは清水で強化育成部長を務め、当時の監督だった長谷川健太氏は訃報に際し「いなければ私がここでみなさんの前で話すこともない。久米さんがいたからこそJリーグで長らく監督ができました。恩人です。エスパルスで辛いとき『監督、まだまだだから元気を出していきましょう』と暗くならず、明るく引っ張っていただいた。非常に残念ですし、Jに貢献したので、ご冥福を祈りたいと思います」と突然の逝去を惜しんでいた。 ▽08年からは名古屋のGMを務め、10年にはクラブに初となるリーグタイトルをもたらす。優勝を決めた湘南戦後、ピッチで祝福の声をかけると「六ちゃん、まだまだこれからだよ」と黄金時代の創設に意欲を見せていた。 ▽同年からは、JFA(日本サッカー協会)の強化技術委員も兼任し、原博実技術委員長や霜田正浩技術委員を支えた。14年に選手としてはこれといった実績もない霜田氏(元FC東京強化委員)が技術委員長に就任した際は、キャリア不足を指摘する声に対し、「Jクラブで(GMとして監督や選手の)切った張ったを経験していないと技術委員長は務まらない」と擁護。それはJリーグでの経験がない過去の技術委員長の、“机上の空論”を批判しているようにも感じられた。歯に衣きせず発言する、久米さんらしい言葉だったし、正鵠を射ていると納得したものだ。 ▽そんな久米さんの言葉で忘れられないのが、01年のこと。西野監督とは同級生でもあり、日立でもチームメイトだった。しかし当時は柏で監督とGMと立場は違う。第1ステージ終了後、6位に終わったことで久米さんは西野監督に「西野、辞めてくれ」と言わざるを得なかった。 ▽当時のことは西野さんも鮮明に覚えていた。それというのも当日は、お嬢さんの誕生日であり新車の納入日でもあったからだ。奥さんからは「大きくて邪魔になる」と言われながらも乗り続けているドイツ車。盟友である久米さんから宣告された“クビ宣言"は、西野さんにとっても予期せぬものだったのかもしれない。 ▽久米さんは「おまえはいいよな、(日立からの出向で身分が保障されて)“ぬくぬく”だよな」と言われたことは、かなりのショックだった。というのも、当時の親会社である日立は業績不振で、柏に資金を投入することができなかった。このため西野監督の希望する補強を久米GMは実現できなかったからだ。 ▽「西野には申し訳ないことをした。いつかまた、西野を監督に呼びたい」――それが当時の久米さんの本音だった。 ▽その思いは13年後に実現した。久米さんが名古屋のGMに就任して6年後の14年、西野さんは名古屋の監督に迎えられた。残念ながら2シーズン、チームを率いながら好成績を残すことはできず、西野さんと久米さんは16年にチームを去る。 ▽西野さんは18年のロシアW杯で日本代表監督としてベスト16に導く。一方の久米さんは今シーズンから清水のGMに復帰し、これからという時期での訃報だった。Jリーグ誕生後は選手、監督として脚光を浴びることのなかった久米さんだが、GMという職業を確立したのは間違いなく久米さんだったと思う。改めてご冥福をお祈りしたい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.26 16:45 Mon
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なでしこ対ノルウェーで思い出した選手/六川亨の日本サッカーの歩み

▽アジアのクラブNo1チームを決めるACL決勝第2戦が10日にテヘランのアザディ・スタジアムで行われ、第1戦を2-0で勝っていた鹿島は、第2戦もペルセポリスに0-0で引き分け、初のアジア王者に輝いた。 ▽国内タイトル19冠と日本最強クラブと言ってもいい鹿島にとって、唯一足りないのがACLのタイトルだった。Jリーグの黎明期である93年から95年は無冠に終わったものの、その後は黄金時代を築く。4-4-2の布陣から堅守速攻というスタイルは25年間変ることがない。むしろACLを勝ち抜くには格好のスタイルだとも思っていた。それがなぜかACLでは早い段階で脱落してきた。 ▽しかし今大会は準決勝のアウェー水原戦で1-3から同点に追いつく粘りを見せた。準々決勝からの6試合で5ゴールを稼いだ途中加入のセルジーニョの活躍が示すように、今大会は持ち味である堅守よりも攻撃的な姿勢が実を結んだと言える。 ▽12月12日からUAEで開催されるFIFAクラブW杯での活躍が楽しみだが、その前に鹿島は来シーズンのACL出場権獲得のためのリーグ戦と、天皇杯の準々決勝という負けられない試合も残っている。これまでも過密日程の中でACLを勝ち上がってきただけに、今回の優勝がプラスと出るのか、選手のメンタリティーにも注目したい。 ▽翌11日は鳥取のとりぎんバードスタジアムでなでしこジャパン対ノルウェーの親善試合が開催された。現コーチで、中学生でL(女子)リーグにデビューした天才少女の大部由美さんが鳥取出身のため地元での開催となったのだろう。 ▽試合は横山のFKから先制すると、岩渕も2ゴールをあげる活躍で4-1の大勝を飾った。ノルウェーは北欧のスウェーデンと並んで女子サッカーが盛んな国だ。95年の第1回女子W杯で優勝すると、00年シドニー五輪では金メダルに輝いた。過去の対戦成績は4勝3敗とほぼ互角。日本は96年アトランタ五輪、99年第3回W杯はいずれも0-4と大敗した。 ▽しかし07年の親善試合で初勝利(1-0)を奪うと、その後のなでしこジャパンは澤や宮間、永里らが中心選手となってチームを牽引しノルウェーに3連勝と立場は逆転する。そして08年の北京五輪ではベスト4に進出するなど、後のW杯制覇やロンドン五輪銀メダルの礎を築いた。 ▽前出した大部コーチが現役時代にデビューしたチームは日興證券ドリームレディースという名のチームだったが、そのチームで忘れられない選手がいる。ノルウェー代表として152試合出場64ゴールを記録したリンダ・メダレンという選手だ。92年に来日すると、いきなり最多ゴール、最多アシストの記録を達成。95年の第1回女子W杯でも優勝の原動力となっていた。 ▽そんな彼女の本職は婦人警官で、フルタイムで働きつつ、空き時間をサッカーに費やしていた。来日後は5ヶ月ほどLリーグでプレーすると、帰国後の7ヶ月は母国での警察官という生活を送っていたものの、94年からは日興證券ドリームレディースのプロ選手としてプレーし、96年にはチームを初優勝に導いた。 ▽96年から日本人選手もプロとなり、日興證券ドリームレディースはリーグ3連覇を果たしたものの、社業の業績悪化のため絶頂期である98年のシーズン中に廃部を決定。大部を始めサッカーを続ける選手は他チームへの移籍を余儀なくされた。 ▽98年といえば、横浜フリューゲルスの出資会社の1つである佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明。さらに親会社の全日空も赤字に陥ったことで、単独でクラブを支えることができない窮地に陥った。クラブを消滅させないためにJリーグが下した決断は、横浜マリノスとの合併だった。LとJで2つのクラブが消滅した98年でもあった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.12 19:00 Mon
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