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【六川亨の日本サッカーの歩み】浦和のジンクス2018.03.05 17:30 Mon

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▽J1リーグはまだ2試合を消化したに過ぎず、現在の順位はあくまで暫定に過ぎない。とはいえ今シーズンはちょっとした“異変”が起きているようだ。まず昨シーズンのアジア王者である浦和が、開幕2試合で1分け1敗の未勝利により13位と出遅れた。

▽昨シーズンのメンバーがほとんど残り、ドリブラーのマルティノスと重量FWの武富を補強して、チームの完成度も高いと思われた。FC東京との開幕戦は後半早々に失点したものの、すぐに槙野が同点ゴールを決めるなど勝負強さを見せた。第2節の広島戦では先制しただけに、勝利は確実かと思われたが、予想外の逆転負け。開幕2戦で未勝利は08年以来10年ぶりで、当時のオジェック監督は前年にACLで優勝しながら、開幕2試合で解任された。

▽浦和以外にも、Jリーグで優勝経験のある磐田とG大阪は2戦2敗で18位と17位に沈んでいる。代わって首位に立っているのが開幕2連勝の名古屋で、同じ勝点6で広島と仙台が続いている。

▽正直、今シーズンの名古屋は降格候補と思っていた。というのも、2月10日に沖縄糸満市で行われたFC東京との練習試合では、DF陣が連係ミスから何度もボールを奪われたからだ。風間監督のスタイルなのだろうが、GKは必ずペナルティーエリアの外にいるDFにパスを出し、DF陣からのビルドアップにトライ。しかしFC東京のプレスに簡単にボールを失い、GKのランゲラックと1対1になるシーンが3回もあった。いずれもGKの好プレーで失点を免れたが、FC東京のGKやDFらのロングパス1本で簡単に裏を取られるシーンも多く、決勝点もそうしたプレーから生まれた。

▽試合後の風間監督は「いまはやろうとしていることにトライしている。成功も失敗もあるが、たくさんトライすることが大事。背後を狙われたのもトライしているから。体のコンディション作りと頭を使うことをやってきたので、整理できて全員が1歩前進した」と収穫を口にした。ただ、川崎Fと比較すると「まだまだ」と風間スタイルの完成は道半ばであることを認めた。

▽その試合のメンバーと第2節の磐田戦では4人が代わっていて、一番の違いは昨シーズンのブラジル・リーグ得点王でMVPのFWジョーの存在だろう。ただ、1人の選手の存在でチームが劇的に変わるとも思えない。ここしばらくは注目したい名古屋である。

▽話は変わり、J1リーグは2005年より18チームになり、1シーズン制を2014年まで採用した。その後2年間は2シーズン制に戻し、再び17年から1シーズン制になった。その間の優勝チームは鹿島が3回、G大阪と広島が2回、川崎F、柏、名古屋、浦和が各1回となっている。

▽そこで興味深いのが、開幕戦で浦和と対戦したチームのリーグ制覇が、開幕戦の勝敗に関係なく5回もあることだ。まず06年は浦和が優勝したので当然として(開幕戦は1-1G大阪)、09年は鹿島が浦和と対戦している(2-0浦和)。そして12年からは3年連続して広島(1-0浦和)、広島(1-2浦和)、G大阪(0-1浦和)と、優勝チームはいずれも開幕戦で浦和と対戦しているのだ。

▽この法則でいくと18年はFC東京ということになるのだが、果たして結果はどうなるのか。ちなみに開幕戦で横浜FMは3回も浦和と対戦している(07、08、17年)が、残念ながらタイトルは取れなかった。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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なでしこ対ノルウェーで思い出した選手/六川亨の日本サッカーの歩み

▽アジアのクラブNo1チームを決めるACL決勝第2戦が10日にテヘランのアザディ・スタジアムで行われ、第1戦を2-0で勝っていた鹿島は、第2戦もペルセポリスに0-0で引き分け、初のアジア王者に輝いた。 ▽国内タイトル19冠と日本最強クラブと言ってもいい鹿島にとって、唯一足りないのがACLのタイトルだった。Jリーグの黎明期である93年から95年は無冠に終わったものの、その後は黄金時代を築く。4-4-2の布陣から堅守速攻というスタイルは25年間変ることがない。むしろACLを勝ち抜くには格好のスタイルだとも思っていた。それがなぜかACLでは早い段階で脱落してきた。 ▽しかし今大会は準決勝のアウェー水原戦で1-3から同点に追いつく粘りを見せた。準々決勝からの6試合で5ゴールを稼いだ途中加入のセルジーニョの活躍が示すように、今大会は持ち味である堅守よりも攻撃的な姿勢が実を結んだと言える。 ▽12月12日からUAEで開催されるFIFAクラブW杯での活躍が楽しみだが、その前に鹿島は来シーズンのACL出場権獲得のためのリーグ戦と、天皇杯の準々決勝という負けられない試合も残っている。これまでも過密日程の中でACLを勝ち上がってきただけに、今回の優勝がプラスと出るのか、選手のメンタリティーにも注目したい。 ▽翌11日は鳥取のとりぎんバードスタジアムでなでしこジャパン対ノルウェーの親善試合が開催された。現コーチで、中学生でL(女子)リーグにデビューした天才少女の大部由美さんが鳥取出身のため地元での開催となったのだろう。 ▽試合は横山のFKから先制すると、岩渕も2ゴールをあげる活躍で4-1の大勝を飾った。ノルウェーは北欧のスウェーデンと並んで女子サッカーが盛んな国だ。95年の第1回女子W杯で優勝すると、00年シドニー五輪では金メダルに輝いた。過去の対戦成績は4勝3敗とほぼ互角。日本は96年アトランタ五輪、99年第3回W杯はいずれも0-4と大敗した。 ▽しかし07年の親善試合で初勝利(1-0)を奪うと、その後のなでしこジャパンは澤や宮間、永里らが中心選手となってチームを牽引しノルウェーに3連勝と立場は逆転する。そして08年の北京五輪ではベスト4に進出するなど、後のW杯制覇やロンドン五輪銀メダルの礎を築いた。 ▽前出した大部コーチが現役時代にデビューしたチームは日興證券ドリームレディースという名のチームだったが、そのチームで忘れられない選手がいる。ノルウェー代表として152試合出場64ゴールを記録したリンダ・メダレンという選手だ。92年に来日すると、いきなり最多ゴール、最多アシストの記録を達成。95年の第1回女子W杯でも優勝の原動力となっていた。 ▽そんな彼女の本職は婦人警官で、フルタイムで働きつつ、空き時間をサッカーに費やしていた。来日後は5ヶ月ほどLリーグでプレーすると、帰国後の7ヶ月は母国での警察官という生活を送っていたものの、94年からは日興證券ドリームレディースのプロ選手としてプレーし、96年にはチームを初優勝に導いた。 ▽96年から日本人選手もプロとなり、日興證券ドリームレディースはリーグ3連覇を果たしたものの、社業の業績悪化のため絶頂期である98年のシーズン中に廃部を決定。大部を始めサッカーを続ける選手は他チームへの移籍を余儀なくされた。 ▽98年といえば、横浜フリューゲルスの出資会社の1つである佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明。さらに親会社の全日空も赤字に陥ったことで、単独でクラブを支えることができない窮地に陥った。クラブを消滅させないためにJリーグが下した決断は、横浜マリノスとの合併だった。LとJで2つのクラブが消滅した98年でもあった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.12 19:00 Mon
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川口の引退/六川亨の日本サッカーの歩み

▽長らく日本代表の守護神を務めたGK川口能活(43歳)が、今シーズン限りで24年に及ぶ現役生活にピリオドを打つことを表明した。端正なマスクと抜群の反射神経の持ち主であり、礼儀正しい姿勢で多くのファンを虜にした。2001年10月にポーツマスへ移籍する際は、川口の大ファンというシンガーの竹内まりあさんとの食事会のセッティングをした。彼女いわく「ボーイフレンドなら松田直樹くん(故人)、結婚するなら川口能活くんかな」という例えに、素直に納得したものだ。 ▽川口のプレーについて、多くを語る必要はないだろう。アトランタ五輪でブラジルを倒した「マイアミの奇跡」、そしてジーコ・ジャパンで臨んだ04年に重慶で開催されたアジアカップの準々決勝ヨルダン戦のPK戦はいまでも語り草になっている。 ▽ブラジル戦では相手の28本のシュートを神がかり的なセーブで防ぎ、1-0の完封勝利に貢献した。ヨルダン戦では、斜めに助走する中村俊輔と三都主アレサンドロが濡れたピッチに立ち足が横滑りしてシュートを外し、日本は3人目が蹴った時点で1-3と絶体絶命のピンチに陥った。しかし、ここで立ちはだかったのが川口だった。 ▽ヨルダンの4人目のシュートを弾き出すと、5人目のシュートは枠外となり日本は同点に追いつく。しかし6人目の中澤佑二がセーブされ、もう後がなくなったかに見えたが川口が再び奇跡的なセーブを見せる。そして7人目の宮本恒靖が決めると、ヨルダンの7人目のシュートはポストに阻まれ日本の勝利が決まった。 ▽アトランタ五輪ではこんなエピソードもあった。基本的に五輪を取材できるのは通信社、新聞社、テレビ局に限る。雑誌社はどうするかというと、雑誌協会に加盟している社が競技ごとに取材担当者を決め、雑協(雑誌協会)代表取材チームを作り、写真なら雑協の加盟社すべてが使えるシステムになっている。 ▽サッカーなら普段から撮り慣れている専門誌のカメラマンということになり、サッカーダイジェストが派遣することになった。もちろん1人しか取材枠はない。そしてブラジル戦後、多くの雑誌から「川口のプレー写真とアップの写真が欲しい」というリクエストが殺到した。 ▽代表幹事からその旨を伝えられたものの、川口を撮影するなら日本のゴール裏から撮影しなければならないこと、そうするとブラジル戦のような伊東輝悦のゴールは撮れないことを伝えると、代表幹事は迷ったものの、「日本のゴールシーンを優先しましょう。川口の撮影は難しいことを各社に伝えます」ということで、対戦相手のゴール裏で撮影を続けることになった。それほどブラジル戦での川口のプレーは強烈なインパクトを残した。 ▽それから5年後、ポーツマスに移籍した川口を取材するため02年2月15日にポーツマスの練習場を訪れた。久しぶりに会った川口は、レギュラーではないためインタビューは受けられないと断りつつ、「練習や試合で見たことを書くのは六川さんの自由なので、感じたことをそのまま書いて下さい」と取材の許可をもらった。 ▽練習後は彼の運転するクルマで海沿いのレストランで一緒に食事をした。体脂肪を考慮して食べるのはサラダと鶏肉が中心で、食後には現地のファンがサインをねだりに来た。川口が食事を終えるまで待っていたのだ。 ▽そして帰り際、川口は「まだ一人旅をしたことがないので、記者やカメラマンのようにデイパックを担いで出かけるのが夢です」と言った。 ▽日韓W杯前のキャンプで再会した川口に成果を聞いたところ、目を輝かせながら「ロンドンまで行ってきました」と楽しそうに話していた。選手生活の晩年は度重なるケガにも悩まされたが、その都度復活して現役生活にこだわった。4度のW杯出場と、アジアカップ連覇(2000年と04年)、さらにGKとして初の海外移籍を果たすなど、記録にも、記憶にも残る「魂の守護神」だった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.06 17:35 Tue
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湘南の前身とセルジオ越後/六川亨の日本サッカーの歩み

▽先週末の10月27日、埼玉スタジアムで行われたルヴァン杯決勝は、初の決勝戦進出を果たした湘南が、元U-20日本代表でもある杉岡大暉のミドルシュートによる決勝点で横浜FMを1-0で下し、初優勝を遂げた。湘南にとっては1994年の天皇杯優勝(当時は平塚)に次ぎ2個目のタイトル獲得で、実に24年ぶりの快挙達成でもあった。 ▽湘南の1-0リードで迎えたハーフタイム、トイレに並んでいると目の前の湘南サポーターのレプリカユニホームの襟には「50anniversary」とプリントされているのに気がついた。50年ということは、チームが誕生したのはメキシコ五輪の開催された1968年ということになる。 ▽湘南(平塚)の前身は、JSL(日本サッカーリーグ)優勝3回と2度の天皇杯優勝を果たしたフジタ工業であったことはご存じの方も多いだろう。1994年にJリーグへの昇格を果たしたものの、1999年に親会社であるフジタ(株)が撤退を表明したためJ2に降格するなど苦労を重ねてきた。ようやく2001年、総合型スポーツクラブとして再スタートを切り、今日に至っている。 ▽そのフジタ工業サッカー部の前身が藤和不動産サッカー部だった。JSL入りを目指して今から50年前の1968年、栃木県で産声をあげた。チームの育成に、東洋工業でJSL4連覇を達成し、後に日本代表の監督を務めた石井義信氏を招聘。1971年に翌年からのJSL1部(この年にJSL2部もスタート)昇格を果たすと、新たに下村幸男氏を監督に迎えたが、前期は2分け5敗(当時のリーグは8チーム)と最下位に沈んだ。 ▽そんなチームを救ったのが、ブラジルからやって来た日系二世でJSL初となる「元プロ選手」のセルジオ越後だった。来日当時27歳のセルジオは、後期に2勝をあげるなどチームに貢献したが、驚かされたのはブラジル仕込みのテクニックだった。 ▽当時のJSLは、東京では国立競技場や西が丘サッカー場、駒沢陸上競技場などで開催された。今とは比べものにならないものの、とりあえず芝生でプレーすることができた。日本人選手のトラップは、グラウンダーならともかく、高く上がったボールは1メートルほど身体から離れるのが当たり前。しかしセルジオは足に吸い付くようにピタリと止まった。 ▽背後への浮き球でも、振り向きざまに足下に収まるのを目の当たりにし、「頭の後ろにも目があるのではないか」と中学生ながら驚いたものだ。当時のフェイントは、タイミングを図ってタテへ抜け出るか、「マシューズ・フェイント」が全盛だったが、セルジオは足の裏を使った引き技など、これまで見たことのないフェイントの数々でマーカーを翻弄した。特にエラシコはセルジオの得意技で、彼自身はボールが伸び縮みするように動くので「ゴムのフェイント」と名付けていた(親友のリベリーノにこのフェイントを教える代わりに、リベリーノからは「またぎフェイント」のコツを教えてもらった)。 ▽試合の勝ち負けより、彼のプレーを見るだけでスタジアムに足を運ぶ価値があった。残念ながら日本での現役生活は2年でピリオドを打つことになるが、1973年はチームの4位躍進に貢献。引退後はブラジルからカルバリオに藤和不動産サッカー部入りを進めるなど、フジタ工業サッカー部の全盛時代の礎を築いた。 ▽そして1975年のシーズン途中には本拠地を栃木から東京に移すと、チーム名もフジタ工業サッカー部に改称。翌76年に札幌大からマリーニョを迎えると、カルバリオとのコンビで77年は18試合で64点という最多ゴール記録(当時)を作ってJSL1部で初優勝を果たした。 ▽その後、1993年にJFL1部優勝を果たし、Jリーグ正会員加盟が決定すると、チーム名を「ベルマーレ平塚」に改称。94年にJリーグへ昇格すると天皇杯優勝と平塚としての初タイトルを獲得するなど、新たな1歩を踏み出して今日に至っているのは周知の事実である。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.29 17:30 Mon
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キリン杯誕生の秘話/六川亨の日本サッカーの歩み

▽10月12日、日本対パナマ戦の国歌斉唱の時のことだった。整列している選手の後ろのピッチ中央に「THE OFFICIAL PARTNER SINCE 1978」と書かれたフラッグがあった。「そうか。キリンカップがスタートして、もう40年になるのか」と感慨深いものがあった。 ▽キリンカップ(当時の名称はジャパンカップ)が始まったのはいまから40年前の1978年5月20日だった。当時のアジアにはマレーシアのムルデカ(マレー語とインドネシア語で独立の意味)大会、韓国の朴(当時の大統領)大統領杯などの招待大会があった。しかしジャパンカップはヨーロッパと南米の強豪クラブに、アジアの代表チームと日本代表を加えた豪華な大会としてスタートした。 ▽第1回大会は奥寺康彦さんが所属する1FCケルン(GKは西ドイツ代表のハラルド・シューマッハー)とボルシア・メンヘングラッドバッハ(GKウォルフガング・クレフとユップ・ハインケスは西ドイツ代表で、アラン・シモンセンはバロンドールを獲得したデンマークの伝説的な選手)、コベントリー・シティ(イングランド)、パルメイラス(ブラジル)の4クラブに、韓国代表、タイ代表、そして日本代表と日本選抜の8チームにより争われた。 ▽8チームを4チームずつ2組に分かれてリーグ戦を行い、上位2チームが準決勝に進む大会形式だった。当時の日本代表の主力選手は永井良和、金田喜稔、西野朗、加藤久らで、長らく代表を支えたメキシコ五輪組は一線を退いたものの、逆に代表チームは低迷期に突入していた。 ▽日本はコベントリー・Cに0-1、タイ代表に3-0、ケルンに1-1で準決勝進出は果たせなかった。ベスト4はいずれもヨーロッパと南米が占め、ボルシアMG対パルメイラスの決勝は1-1の引き分けに終わり両チーム優勝となった。 ▽当時のイングランド勢は代表チームもクラブチームもヘディングの強さは世界1と言っていいほど図抜けていた。このためケルン対コベントリー・C戦でのケルンは、空中戦を封じるためオフサイドトラップを積極的に仕掛けたが、最終ラインをセンターサークルまで上げたのは衝撃的だった。 ▽翌年の第2回大会にはイタリア代表のジャンカルロ・アントニョーニ率いるフィオレンティーナや、前年のアルゼンチンW杯で優勝したリカルド・ビジャ、オズワルド・アルディレス(後に清水の監督)を擁するトッテナム・ホットスパー(後に清水の監督に就任したスティーブ・ペリマンも来日してプレー)など8チームが参加(優勝はトッテナム)。W杯優勝チームの選手が来日したのは滅多にないことだった。 ▽このジャパンカップだが、JFA(日本サッカー協会) の長沼健(故人)専務理事が、まだ原宿にある岸記念体育館(日本のアマチュアスポーツの総本山)の3階にあったサッカー協会の部屋の窓からJR山手線の線路を挟んで建っていたキリンビールの本社ビル(現在は移転)を眺め「ああいう大きな会社に支援をお願いできないものか」と思案し、人伝に同社とアポを取り、キリンビールの小西秀次社長(当時)に直談判した結果、冠スポンサーを実現させたと言われている。 ▽2002年の日韓W杯終了後、2003年にJFAはW杯などで得た資金でお茶の水にある三洋電機からビルを購入。通称JFAハウスとしてサッカー協会とJリーグ、JFLなどの事務局を9月に移転した。地下には2002年のW杯を記念した日本サッカーミュージアムを12月22日に開設。オープニングイベントとして、サッカー関係者からサッカーにまつわる思い出のグッズを説明文つきで掲示する企画があり、その取材を手伝うことになった。 ▽ベルリン五輪のメンバーだった鴇田正憲さん(翌年没)、漫画家の望月三起也さん(故人)や奥寺康彦さんら40人近くの方々を電話や会って直接取材したが、その中の1人にキリングループの広報の方もいた。取材テーマは「ジャパンカップ誕生秘話」だったが、八丁堀にある本社を訪ねて広報の方を取材したものの、「ジャパンカップ誕生にまるわる資料は一切ありません」との返事。 ▽長沼さんがサッカー協会からキリンビールの本社を見てジャパンカップのスポンサーをお願いしたエピソードはもちろん知っていたが、それについては「都市伝説のようなものではないでしょうか。伝説は伝説として残しておこうとということで、肯定も否定もしません」との返事だった。 ▽現在キリンのホームページには「KIRINサッカー応援の歴史」というコーナーがあり、「支援のはじまり」では大会の誕生した経緯が、上で紹介したように長沼さんと小西社長との出会いがきっかけだったと書かれている。広報の方が言ったように「伝説は伝説として残して」あるのだ。 ▽実は長沼さんがJFA最高顧問の時に、ジャパンカップ誕生の真相を聞いたことがある。しかし「伝説は伝説として残しておく」ため、真相を書くことは控えたい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.16 14:00 Tue
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記録更新なるか。かつてない激戦の残留争い/六川亨の日本サッカーの歩み

▽J1リーグも10月7日で第29節を終了。代表ウィークのため2週間ほど中断されるが、今シーズンも残り5試合(札幌とC大阪、湘南、磐田は残り6試合。名古屋は7試合)となった。首位の川崎F対鹿島戦は0-0のドローだったが、2位の広島(勝点56)は柏に0-3と完敗。それでも両チームの勝点差は1しかない。数字上は8位のC大阪まで優勝の可能性を残しているものの、3位の鹿島(勝点46)と川崎F(勝点57)は11勝点差もあるだけに、優勝争いはほぼ2チームに絞られたと言っていいだろう。 ▽一方、下位に目を向けると勝点30で17位の鳥栖はフィッカデンティ監督の解任が決定的と見られているが、近年まれに見る大混戦となっている。現時点で自動降格圏を脱出しているのは4位のFC東京(勝点46)まで。オリジナル10でJ2に降格したことがない横浜FM(勝点38)も、まだ安全圏にいるとは限らない。 ▽J1リーグが現行の18チームになったのは2005年のこと。以来、最下位で降格したJ1チームの最多勝点は09年のジェフ千葉で、勝点は27だった(それに続くのが17年の大宮の25)。ところが今シーズンは、5試合を残してすでに最下位の長崎が勝点27とタイ記録に並んでいる。長崎が残り5試合で1勝でもすれば勝点は30台に乗り、すべてのチームが年間の勝点で30以上という、かつてないハイレベルな残留争いになる。 ▽こうした大混戦の原因は、他ならぬ長崎にあるだろう。これまでの降格パターンで多かったのが、J2昇格組が“1弱"ないしは“2弱"という状況から1シーズンでJ2に舞い戻ることだった。06年の京都(勝点22)、07年の横浜FC(同16)、08年の札幌(同18)、10年の京都(16)と湘南(19)、11年の山形(21)、13年の大分(14)、14年の徳島(14)がこのパターンだ。京都以外はどのクラブも親会社のないチームで、財政的に厳しい状況のため、J1に昇格しても大型補強ができずJ2降格の憂き目に遭っている。 ▽しかし長崎は初のJ1にもかかわらず清水、G大阪、柏、磐田、FC東京、仙台を倒し、名古屋からは2勝をあげているのは立派。残り5試合は磐田、鳥栖、横浜FM、G大阪、清水と前半戦で勝利をあげている“相性の良い相手"かもしれない。 ▽いずれにせよ、J1残留争いは最終節までもつれ込むことになるのではないだろうか。名古屋は消化試合が2試合少ないため、11月は3日と6日が中2日の連戦となるのがどう影響するのか。柏と湘南はルヴァン杯でベスト4に勝ち残っていて、準決勝で激突するためどちらか1チームは決勝戦に進出する。タイトルか残留かで両チームの指揮官も頭を痛めていることだろう。 ▽最後に08年は勝点37の東京Vが17位でJ2に降格した。10年はFC東京が36点の16位、12年は38点で17位のG大阪と、39点で16位の神戸がJ2行きを余儀なくされた。今シーズンはJ2降格の最多勝点記録を更新するのかどうかも見物だ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.09 17:30 Tue
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