【六川亨の日本サッカーの歩み】平昌五輪開幕、南北合同チーム結成で思い出す北朝鮮の3人枠2018.02.05 18:00 Mon

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▽いよいよ今週金曜の9日から、平昌冬季五輪が開幕する。東アジアでの国際大会は時差を気にせず観戦できるのが一番の利点と言えるだろう。それは2年後の東京五輪にも当てはまるので、多くのファンが様々はオリンピック・パラリンピックを楽しむことになるだろう。

▽そんな平昌五輪で、いまだ不透明なのが北朝鮮の参加だ。女子アイスホッケーの登録枠はどのように対処するのか。すでに決まっている韓国代表に北朝鮮の選手を加えたら、1ヶ国だけ大所帯になり不公平感は否めない。だからといって韓国の選手を削って北朝鮮の選手と入れ替えるのも、韓国のファンからすれば納得できない措置だろう。

▽過去88年のソウル五輪、02年の日韓W杯の際も韓国は北朝鮮に合同チームの結成を呼びかけてきた。それは韓国で開催される国際大会を無事に開催するための、方便であったような気がする。融和ムードを提案しつつ、北朝鮮は参加を拒むだろうという推測での合同チーム結成だった。

▽核開発を巡り対決姿勢を強めている北朝鮮だけに、これまで以上に頑なな態度で参加を拒否する――と思っていたところ、思惑が外れたような気がしてならない。雪不足に加えて強風も吹く、過去、最極寒の地で大なわれる平昌五輪。果たして大会は成功裏に終わるのだろうか。

▽といったところで前置きが長くなってしまったが、今回はサッカー北朝鮮代表についてのトリビアを紹介しよう。昨年12月のEAFF E-1選手権での北朝鮮は、最下位に終わったものの讃岐所属のボランチ李榮直(リ・ヨンジン)の活躍が評価され、東京Vへの移籍を果たした。彼以外にも、町田DF金聖基(キム・ソンギ)、熊本FW安柄俊(アン・ビョンジュン)という3人の在日Jリーガー選手がいた。

▽北朝鮮のサッカー事情詳しい知人が教えてくれたのだが、いつしか北朝鮮には「3人のJリーガー枠」というものができていたという。E-1選手権の日本戦でも、アウェーのゴール裏ではたぶん東京や大阪の朝鮮高級学級の生徒とおぼしい女性たちが、きれいなコーラスで声援を送っていた。日本で試合をする際に、母校のOBが代表チームにいれば応援にも熱が入るのだろう。

▽そんな「Jリーガー枠」のピークが10年南アW杯の北朝鮮代表だった。MF安英学(アン・ヨンハ/当時は大宮)、MF梁勇基(リャン・ヨンギ/仙台)、FW鄭大世(チョン・テセ/川崎F)と3人の主力が母国を44年ぶりのW杯に導いた。

▽では、いつから代表チームに「在日北朝鮮人枠」ができたのかというと、明確な記録はない。初めて在日朝鮮人でありながら代表チームに抜擢されて日本戦に出場したのは、85年メキシコW杯1次予選に出場した、当時は在日朝鮮蹴球団に所属していた金光浩(キム・ガンホ)さんだった。大型FWで、日本代表DF加藤久さんとは名勝負を繰り広げたものだ。

▽ただ、当時は日本がW杯1次予選で北朝鮮を1勝1敗で下したものの、実力的には北朝鮮の方が上だったので、あえて日本在住の選手を起用する必要はなかっただろう。逆に言うと、それだけ金光浩さんは抜きん出た存在だったとも言える。

▽その後もイタリアW杯予選ではキム・ジュソンさんやキム・シノンさんらが北朝鮮の代表チームで活躍するなど、その存在感を発揮し始める。そしてJリーグ誕生後は、年を重ねるごとに韓国代表もJリーグに参戦し、切磋琢磨して今日につながっている。

▽スポーツが外交に寄与する時代は過ぎ、新たにドーピングという国際的な問題も持ち上がっている。平昌五輪は競技はもちろんのこと、運営やインフラ、ボランティア活動といったあらゆる面で無事に閉幕を迎えることができるのか。それはそのまま、20年の東京五輪の課題にもつながるだけに、競技を楽しみつつ注目したい。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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【六川亨の日本サッカーの歩み】鈴井コーチ誕生の経緯

▽今週は先週に引き続き、JFLから関東リーグに降格したブリオベッカ浦安のコーチに就任した鈴井智彦くんを紹介したい。今年で46歳になる彼の指導者としてのスタートは、09年にFC琉球のヘッドコーチから始まった。JFA(日本サッカー協会)公認A級コーチの資格を取得し、その後は秋田 U-18 監督やアカデミーダイレクター、栃木のスカウティング、大分U-18の監督などを歴任し、今シーズンから浦安のヘッドコーチに就任した。 ▽彼と初めて出会ったのは、東海大学を卒業する前だった。静岡学園、東海大とサッカーの名門校を歩み、大学時代はレギュラーではなかったものの、草サッカーでは群を抜いていた(当然ではあるが)。 <span class="split"></span> ▽そんな彼が、当時務めていたサッカーダイジェストに入社を希望していると、部下だった金子達仁くんから相談を受けた。金子くんは、東海大のエースで、その後はGK大阪でプレーし、現在は宮大工をしている礒貝洋光くんと親交が深かったため、礒貝くんを通じて鈴井くんを紹介されたのだった。 ▽会ってみると、とても素直な好青年だった。そのまますんなり入社が決まったものの、サッカー一筋の人生だったため、記者・編集者としては金子くんや上司で現在はフリーの記者として活躍している戸塚啓くんから厳しい指導を受けた。 ▽そんな彼の転機となったのは、やはり金子くんの存在が大きかったのだろう。金子くんは95年の結婚を契機にダイジェストを退社し、憧れだったヨハン・クライフが監督を務めるバルセロナへ移住する。バルセロナには当時、専門誌の契約カメラマンが長く在住していたため、その縁もあって移住しやすかった。 ▽そんな金子くんを追って、同年には羽中田昌くんが指導者を目指してバルセロナへ旅立つ。さらに翌年、鈴井くんも「記者ではなくフォトグラファーになりたいんです」と相談を受け、ダイジェストを辞めた。 ▽その後、鈴井くんは08年までバルセロナに滞在し、フォトグラファーだけでなくスポーツライターとしてもナンバーなどで活躍。帰国後は金子くんが経営に関わっていたFC琉球の広報としてチームを支えていたが、いつのまにか指導者の道に転身し、J2の複数のチームを渡り歩き、今シーズンから浦安のヘッドコーチに就任した。 ▽思い起こせば金子くんの後を追ってバルセロナに渡った羽中田くんと鈴井くんが、同じチームで夢を追うのは当然のことかもしれない。2人とも指導者として成功を収めたとは言い切れないが、だからこそ浦安で頑張って欲しいと願わずにはいられない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.02.19 19:00 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】羽中田さんと鈴井コーチの巡り合わせ

▽今週は、ちょっと地味だが2016年にJFL(ジャパン・フットボールリーグ)に昇格したものの、2017年は年間15位で再び関東リーグに降格したブリオベッカ浦安について取り上げたい。元日本代表DF都並敏史さんの長男がプレーしていたクラブで、2014年には都並さんもテクニカルダイレクターに就任し、チームはJ3昇格を目指していた。 ▽監督の齋藤芳行さんは、都並さんが仙台やC大阪、横浜FCの監督を務めていた時のヘッドコーチで、都並さんの右腕とも言える参謀だった。しかし2017年は成績不振によりシーズン途中で解任される。後任には、都立石神井高校初のJリーガーで、松本山雅ユースのアドバイザーを務めていた柴田峡を招へいしたが、浮上のきっかけをつかめないまま契約満了で退任した。 ▽再び関東リーグでJFL昇格を狙うチームの監督を任されたのが、讃岐などの監督を歴任した羽中田昌(はちゅうだ まさし)さんだった。羽中田さんのプレーを初めて見たのは彼が韮崎高校1年の時の選手権だった。大宮サッカー場で行われた試合では、泥田のようなピッチコンディションでも足に吸い付くようなドリブルに度肝を抜かれた。羽中田さんと同学年の保坂孝さんもドリブルを得意とする大型ストライカーで、2人は将来を多いに嘱望されたものだ。 <span class="split"></span> ▽残念ながら高校選手権ではベスト4が1回、準優勝が2回と頂点に立つことはできなかった。そして羽中田さんはバイクを運転中に転倒し、脊髄損傷で車椅子での生活を余儀なくされた。一度は山梨県庁に勤めたものの、1993年のJリーグ開幕に刺激を受けて指導者の道を志す。選んだのは憧れの選手ヨハン・クライフが指揮を執るバルセロナだった。 ▽1995年に行われたスペイン留学の送別会にはセルジオ越後氏も出席し、羽中田さんのことを「彼は僕のチェアー(椅子=車椅子)マンです」と、川淵チェアマンにひっかけて紹介したことを今でも覚えている。 ▽帰国後はたゆまぬ努力でS級ライセンスを取得。身体障害者としては史上初の快挙だった。その後は讃岐の監督や、関西1部リーグの奈良クラブ(現JFL)、東京23FC(関東リーグ)の監督を歴任し、東京23FCでは関東リーグで優勝したが(2016年)、地域CLは1次ラウンドで敗退してJFLの昇格はかなわなかった。 ▽そんな羽中田さんが、再び指導者として関東リーグのブリオベッカ浦安を率いてJFL昇格に挑戦する。讃岐時代は四国リーグで優勝し、奈良クラブでは関西1部リーグで2位までチームを躍進させた。東京23FCでも関東リーグで優勝したものの、いつもその先の“壁”を破れずにいるのは、羽中田さん自身が一番歯がゆく感じていることだろう。 ▽捲土重来がなるか。彼とは出会ってから40年近くが経ち、毎年交換している年賀状には近況報告と同時にいつも抱負が添えられている。思い返せば高校選手権から彼のサッカー人生は挫折の連続だった。高校選手権では、破れた試合後のロッカールームで悔し泣きしていている羽中田さんと保坂さんを3年間取材した(当時はロッカールームでの取材はフリーだった)。 ▽それでも何度となく立ち直り、新たな試練に挑んでいる。地域リーグやJFLの苦労を熟知しているだけに、ブリオベッカ浦安での成功を願わずにはいられない。 ▽そして羽中田監督を補佐するコーチに、鈴井智彦氏が就任したのにも驚かされた。彼は東海大学を卒業後、サッカーダイジェストへの入社を希望したため面接をし、編集部員として採用した。その後は紆余曲折を経ながらもサッカー界で仕事を続けたが、まさかブリオベッカ浦安のコーチとして羽中田監督をサポートするとは予想外の出来事だった。 ▽そんな鈴井氏についての話は長くなるので、来週のコラムで紹介したい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.02.12 18:45 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】かつて“怪物"と呼ばれたストライカーが現役を引退

▽先週末のことだ。“怪物"と呼ばれたストライカーが現役生活に別れを告げた。仙台のFW平山相太である。彼のプレーを初めて見たときは衝撃的だった。第82回高校選手権で、平山や1年生ながら国見高校のエースとして活躍し、得点王となってチームを優勝に導いた。 ▽190センチの長身を利したヘディングの強さはもちろんのこと、リーチの長さを生かした突破からのシュートも正確だった。爆発的なスピードがあるわけではないが、ワンフェイク入れて外やタテに持ち出してのシュートは、リーチが長いためDFが足を出しても届かない。その長身を活用したプレーで、高校選手権で優勝2回と史上初となる2年連続(2002、2003年)の得点王、さらにインターハイや高円宮杯優勝と、高校時代はタイトルを総なめした。 ▽高校卒業後の2004年は筑波大学に進学。国見高校の小嶺監督は「相太は成績優秀だから、学力でも国公立大に進学できる」と話していたが、真偽のほどは分からない。筑波大学では、デビュー戦となった駒沢陸上競技場には数多くのメディアが詰めかけた。そうしたプレッシャーにも負けず、平山は決定力の高さを発揮して筑波大のリーグ優勝に貢献。その間には病気で離脱した高原直泰に代わりU-23日本代表の一員としてアテネ五輪も経験した。 ▽その後は筑波大学を中退してオランダに渡り、ヘラクレスで2シーズンほどプレーした後、FC東京への復帰を果たした。ヘディングが武器の平山だったが、当時の監督である原博実氏は、全体練習終了後に自ら手でボールを投げて、平山にヘディングの特訓を施していた。それは彼に対する期待の表れだったと言える。 ▽2010年は岡田ジャパンに招集され、デビュー戦となったイエメン戦ではハットトリックを達成。これは80年ぶりのタイ記録である。こうして順風満帆なサッカー人生を送ってきた平山だったが、2011年の4月10日の練習試合中に頸骨と腓骨を骨折する。ここから彼のケガとの戦いが始まった。 ▽2012年に復帰したものの、5月に腓骨と短腓骨筋を挫傷し再び離脱。この2シーズン初めて無得点に終わった。その後も指揮官が代わるなか、2人の外国人監督は平山の長身を高く評価するも、2014年に右足首を骨折すると、2015年は固定していた髄内釘を除去する手術に踏み切ったため、ケリハビリに明け暮れる毎日が続いた。 ▽すでに体調をベストに戻すことは難しかったが、2016年は可能な限り練習に参加してコンディションを維持し、交代出場が多かったものの15試合に出場して5ゴールを決めた。6月25日の第19節、横浜FM戦では試合終了間際の小川のFKから得意のヘッドで決勝弾を決め、5試合ぶりの勝利(1-0)をもたらした。 ▽試合後の平山は、「セットプレーはチームとしてDFもFWも練習しているので、それが結果につながった。(シュートは)一瞬、止められるかなと思ったけど、クロスのスピードがあったので相手GKの手を叩くことができた。勝利に近づけてうれしかった」と、気負うことなく話していた。 ▽2017年は心機一転、仙台への完全移籍を決断したものの、開幕直後に左足首を負傷して、再び長期離脱を余儀なくされる。そしてプロ入り後は初めてとなる公式戦に出場がないまま2017年を終了。クラブは契約を更新する予定でいたが、平山自身が引退を決意した。 ▽高校時代の強烈なイメージが強すぎるせいか、平山は、記録はもちろん記憶にも残りにくいプロサッカー選手としての人生だった。彼の引退の報を新聞で知ったとき、かつてのチームメイトだった石川直宏を思い出した。まだまだ現役を続けたいものの、自分の体が思うように動いてくれないもどかしさは、本人が一番感じていることだろう。 ▽できれば、もう1シーズン、J1に初昇格となる長崎で平山のプレーを見たかったというファンも多いのではないだろうか。ともあれ、平山は引退を決意した。彼のセカンドキャリアを暖かく見守りたいと思う。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.29 17:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】卓球界を始めとする早熟の天才児たちに期待

▽昨日は、珍しくテレビで卓球の全日本選手権に見入ってしまった。こんな経験は小学生以来かもしれない。女子シングルス決勝では17歳の伊藤美誠が同学年のライバル、平野美宇を下して3冠を達成。そして男子シングルでは14歳の張本が、王者・水谷の5連覇を阻み、史上最年少で日本の頂点に君臨した。 ▽かつては21点制で2ゲーム先取するシステムだったが、現在は11点制で4ゲーム先取すると勝利が決定する。そんなシステム変更を知らないほど、卓球とは疎遠になっていた。子供の頃は町中に卓球場やビリヤード場があってよく通ったが、いまはほとんど見かけない。大型の複合娯楽施設にでも行かないとできないのかもしれない。 ▽彼らの視線の先には20年東京五輪での金メダル獲得という目標があるのは間違いない。来月からは平昌五輪が始まるが、そこでも女子スキージャンプの高梨や、男子フィギュアスケートの宇野ら若い世代の台頭は著しい。何とも羨ましい限りだが、男子サッカーも負けてはいない。 <span class="split"></span> ▽東京五輪を目指してスタートした森保ジャパンは 中国で開催されたAFC U-23選手権中国2018で、グループリーグを3連勝で通過した。残念ながら準々決勝でウズベキスタンに0-4と大敗したが、やはり2歳の年齢差は連戦になればなるほど大きかったのかもしれない(ベトナムのベスト4進出には驚かされた)。 ▽ただ、森保監督によると、今回は疲労を考慮して招集を見送った久保や平川らを3月のパラグアイ遠征に帯同させるという。日本の誇る“天才児”がどのような刺激をチームに与えるのか楽しみなところだ。 ▽その久保だが、いまさら彼のプレーの特長を紹介する必要はないだろう。久保を取材して驚かされるのは、技術的なことよりも、サッカーに対する洞察力の深さだ。昨年5月6日のJ3リーグの琉球戦でのこと。後半に40メートル近くもドリブルで突破してゴールに迫った。そのプレーについて久保は、「早い時間に退場者が出て(前半18分で小川が警告2回で退場)、後半も1人少なく厳しい試合になりました。1人少ないので、攻撃は個でやるしかないと思いました。何回かは個を出せたかな」と自身の判断でプレーを変えたことを明かした。当時はまだ15歳。にもかかわらず冷静に試合の状況を把握していた。 ▽そしてFC東京の石川と徳永のラストマッチ(石川は引退、徳永は長崎へ移籍)となった12月2日のJ1リーグの G大阪戦では、後半35分に東と交代で出場すると、後半アディショナルタムに右からのカットインで左足を振り抜き決定的なシュートを放った。ゴール左上を襲った一撃はGK東口の好セーブに阻まれ得点には結びつかなかった。 ▽試合後の久保は「短い時間の中でチームの力になれるよう、自分なりに頑張りました。チームとしては(石川と徳永を)勝利で送り出したかったのが本音です。(シュートは)残り時間が少なかったので、0-0を動かせればよかったのですが、あそこは(GKに)読まれていました」と淡々と振り返った。 ▽普通の選手なら悔しがるところだろう。まして10代の選手なら、日本代表GKに阻まれてもシュートまで持ち込んだことに手応えを感じてもおかしくない。しかし久保はあくまで冷静だ。 ▽彼が10代の無邪気な一面を見せたのは1回しか遭遇していない。プロ契約した11月、トップチームの練習とファンサービスを終えてクラブハウスへ引き上げる際のことだ。これからナイターの練習に向かうFC東京U-18のチームメイトか後輩に向かい、笑顔で手にしていたマジックペンを振って「サインしてやろうか」とおどけていた。 ▽彼もまた、東京五輪で注目される選手の1人であることは間違いないだろう。唯一の気がかりは、2年後の6月には18歳になっているということ。すでに現在もヨーロッパのビッククラブから高額のオファーが届いており、そのためクラブは早めにプロ契約に踏み切ったと聞く。ここら当たりが久保裕也の例を出すまでもなく、他の競技と違う五輪サッカーの難しさでもある。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.23 19:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】高校選手権の隠れたドラマ。初めて大阪に優勝旗を持ち帰った監督

▽第96回全国高校サッカー選手権は、前橋育英の初優勝で幕を閉じた。流経大柏との決勝戦は、両チームとも高い集中力による好守が光り、1点を争う緊迫した試合だった。ただ、地力に勝る前橋育英はほとんどの時間帯でボールを支配し、決定的なシーンを何度も作っていただけに、優勝は順当な結果とも言える。 ▽今大会に限ったことではないが、年々全国の格差が縮まっていることを痛感させられた高校選手権でもあった。それは、過去に優勝経験のある清水桜が丘(旧清水商)、秋田商(はるか昔だが)、広島皆実、山梨学院の4校が姿を消し、2回戦でも星陵、滝川二、東福岡が敗退する波乱があった。 ▽そして日本文理や明秀日立、米子北が初のベスト8に進出し、上田西は長野県勢として初のベスト4に進出した。組み合わせに恵まれたとはいえ、米子北はプレミアリーグで揉まれているし、上田西には元横浜MのDFで、日本代表にも選出された鈴木正治氏のサッカースクール「シュートFC」の教え子がいるなど、確実にチーム力は上がっている。もはや高校選手権に“波乱”という言葉は当てはまらないのかもしれない。 ▽そんな高校選手権を取材して、「おや」と思ったことがあった。2回戦から登場した大阪桐蔭が、羽黒との試合で選手全員が喪章を巻いていた。その理由を試合後に永野監督は、恩師である元初芝高校監督の田中勝緒氏が昨年12月16日に75歳で亡くなったことを明かした。直接指導を受けたことはないものの、「いつも合宿や遠征では声をかけてくれた」そうで、昭和48年の高校選手権で同校が初優勝したDVDは、移動のバスのなかで選手に見せていたと言う。 ▽「おや」と思ったのは、永野監督が「最初に大阪に優勝旗を持ち帰られた監督」と話したことだった。高校選手権は1976年(昭和51年)から首都圏開催となって現在に至っているが、それまでは長居競技場や靱(うつぼ)球技場など大阪開催だったはず。なので「大阪に持ち帰る」という表現に違和感を覚えたのだった。 ▽そこで古い資料を探したところ、昭和48年当時は西宮球技場と神戸中央球技場がメイン会場として使用され、西宮球技場は関西において「フットボールのメッカ」だったことが分かった。両競技場とも所在地は兵庫県。隣県とはいえ、「最初に大阪に優勝旗を持ち帰った監督」というのは間違いではなかったのだ。 ▽高校選手権の黎明期は御影師範や神戸一中といった兵庫県勢が全盛期を迎えていた。そうれだけに、「最初に大阪に持ち帰った」という田中監督の偉業を大阪の指導者の方々は忘れずにいるのだろう。これも永い歴史を誇る高校選手権の、隠れたドラマの一つではないだろうか。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.09 07:00 Tue
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