【六川亨の日本サッカーの歩み】高校選手権の隠れたドラマ。初めて大阪に優勝旗を持ち帰った監督2018.01.09 07:00 Tue

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▽第96回全国高校サッカー選手権は、前橋育英の初優勝で幕を閉じた。流経大柏との決勝戦は、両チームとも高い集中力による好守が光り、1点を争う緊迫した試合だった。ただ、地力に勝る前橋育英はほとんどの時間帯でボールを支配し、決定的なシーンを何度も作っていただけに、優勝は順当な結果とも言える。

▽今大会に限ったことではないが、年々全国の格差が縮まっていることを痛感させられた高校選手権でもあった。それは、過去に優勝経験のある清水桜が丘(旧清水商)、秋田商(はるか昔だが)、広島皆実、山梨学院の4校が姿を消し、2回戦でも星陵、滝川二、東福岡が敗退する波乱があった。

▽そして日本文理や明秀日立、米子北が初のベスト8に進出し、上田西は長野県勢として初のベスト4に進出した。組み合わせに恵まれたとはいえ、米子北はプレミアリーグで揉まれているし、上田西には元横浜MのDFで、日本代表にも選出された鈴木正治氏のサッカースクール「シュートFC」の教え子がいるなど、確実にチーム力は上がっている。もはや高校選手権に“波乱”という言葉は当てはまらないのかもしれない。

▽そんな高校選手権を取材して、「おや」と思ったことがあった。2回戦から登場した大阪桐蔭が、羽黒との試合で選手全員が喪章を巻いていた。その理由を試合後に永野監督は、恩師である元初芝高校監督の田中勝緒氏が昨年12月16日に75歳で亡くなったことを明かした。直接指導を受けたことはないものの、「いつも合宿や遠征では声をかけてくれた」そうで、昭和48年の高校選手権で同校が初優勝したDVDは、移動のバスのなかで選手に見せていたと言う。

▽「おや」と思ったのは、永野監督が「最初に大阪に優勝旗を持ち帰られた監督」と話したことだった。高校選手権は1976年(昭和51年)から首都圏開催となって現在に至っているが、それまでは長居競技場や靱(うつぼ)球技場など大阪開催だったはず。なので「大阪に持ち帰る」という表現に違和感を覚えたのだった。

▽そこで古い資料を探したところ、昭和48年当時は西宮球技場と神戸中央球技場がメイン会場として使用され、西宮球技場は関西において「フットボールのメッカ」だったことが分かった。両競技場とも所在地は兵庫県。隣県とはいえ、「最初に大阪に優勝旗を持ち帰った監督」というのは間違いではなかったのだ。

▽高校選手権の黎明期は御影師範や神戸一中といった兵庫県勢が全盛期を迎えていた。そうれだけに、「最初に大阪に持ち帰った」という田中監督の偉業を大阪の指導者の方々は忘れずにいるのだろう。これも永い歴史を誇る高校選手権の、隠れたドラマの一つではないだろうか。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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【六川亨の日本サッカーの歩み】ソウル五輪予選で日本を破った中国選手の息子がJ1で活躍

▽先週末10日のJ1リーグ、今シーズンから導入された「フライデーナイトJリーグ」のG大阪対FC東京戦で、懐かしい名前を久々に聞いた。試合はG大阪がファビオのゴールで先制すれば、FC東京もディエゴ・オリヴェイラが個人技による突破から同点に追いつく。そして迎えた後半アディショナルタイムの95分、G大阪は高宇洋(こう たかひろ)のアシストからアデミウソンが決勝点を決めて9試合ぶりの、宮本監督になってからは初の勝利をあげた。 ▽試合後、解説を務めた水沼貴史さんは決勝点をアシストした高をヒーローインタビューしたが、そこで「僕もお父さんと試合をしたことがあるんですよ」と高に話しかけたのでピンと来た。 ▽調べたところ高は川崎Fの下部組織出身で、ユースに昇格できたものの市立船橋高に進み、高校3年時にはインターハイで優勝している。そして市立船橋高に在学中に日本国籍を取得した。ボランチとしてJの複数クラブから声がかかり、G大阪に入団したのが昨シーズンのこと。昨夏にはA契約を結んだのだから、将来を嘱望される選手なのだろう。 ▽さて彼の父親である。水沼さんが「試合をしたことがある」のは、忘れもしない87年のソウル五輪アジア最終予選の中国戦だ。日本はアウェー広州での試合を原博実のゴールにより1-0の勝利を収めた。あとは日本でのホームゲームで引き分ければ20年ぶりの五輪出場が決まる。しかしホームで0-2と敗れ、五輪出場の夢を断たれた。 ▽そのときの中国DFが高の父親である高升(こう しょう)だった。当時の中国には後にG大阪入りするストッパー賈秀全や、馬林、柳海光といった大型ストライカーを擁し、1948年のロンドン五輪以来40年ぶりの五輪出場を果たした。 ▽なぜ高升の名前を覚えていたかというと、その後は沈祥福、呂洪祥ら中国代表のチームメイトから誘われ、富士通(現川崎F)でプレーしたからだった(当時の富士通はJSL2部)。当時の富士通は中国に進出するため、中国人選手を獲得したという噂も流れた。日本での現役生活は91年から95年の4年間と短かったものの、その間に日本人女性と結婚し、06年には川崎Fの指導者を務めたこともある。 ▽さらに岡田武史氏が中国スーパーリーグの杭州緑城の監督を務めた際は、アシスタントコーチとして同氏を支えるなど、日本との縁も深い。現役時代の水沼氏にとっては五輪出場を阻まれたライバルでもある高升。ひょんなところから懐かしい名前が飛び出したものだと感心せずにはいられなかった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.14 13:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】東京五輪の公式ソングを歌うのは?

▽まだ2年先の話ではあるが、2020年東京五輪・パラリンピックの開閉会式を演出する総合統括に、狂言師の野村萬斎さんが就任した。そして五輪統括には映画監督の山崎貴さん、パラリンピック統括には広告クリエーティブディレクターの佐々木宏さんが就任した。五輪は野村さんと山崎さん、パラリンピックは野村さんと佐々木さんが中心となって具体的な演出と企画をする。 ▽狂言師の野村さんに加え、山崎さんは映画「ALWAYS三丁目の夕日」や「永遠の0」で日本アカデミー賞最優秀監督賞を2度受賞。佐々木さんは、16年リオ五輪・パラリンピックのハンドオーバーセレモニー(東京大会への引き継ぎ式)の演出チームとして活躍した。いずれも現在の日本を代表するクリエーターだけに、どんな開閉会式になるのか楽しみだ。 <span class="split"></span> ▽こうした国際的なイベントに欠かせないのが「大会公式ソング」だろう。54年前の東京五輪では三波春夫さんが和服姿で「東京五輪音頭」を歌っていた。当時小学1年生だった僕は、オリンピックという国際的なイベントと夏祭りで踊っていた「音頭」の組み合わせに違和感を覚え、子供心に気恥ずかしさを感じてしまった。 ▽いま振り返ると、当時はニューミュージックもJポップもない時代であり、歌謡曲や演歌が全盛だっただけに、国民的な歌手である三波さんが歌ったのは当然のことだったのだろう。 ▽さて2年後の東京五輪である。もしも公式ソングを作るとして、歌うのは幅広い層のファンを持つサザンオールスターズか。あるいはEXILEやテノール歌手の秋川雅史さんあたりが候補になるのだろうか。 ▽そこで個人的な提案である。W杯では98年フランス大会から公式テーマソングが採用された。リッキーマーティンが歌ったノリノリの曲を覚えている読者も多いことだろう。しかし02年日韓大会や06年ドイツ大会はどうも印象が薄い。むしろ10年南ア大会で女性シンガーのシャキーラ(バルセロナのピケと結婚)が歌った「Waka Waka」はいまも耳に残っているし、なぜかロシアW杯でも流れていた。 ▽その後のブラジルはもちろん、ロシアでもFIFAの公式テーマソングはあったが、スタジアムで耳にした記憶はない。そんなロシアのスタジアムでいつも流れていたのは「トロイカ」であり「カリンカ」だった。いずれもロシア民謡として50代以上の年齢層には聞き覚えのあるメロディーだ。 ▽ちなみに日本のサポーター集団であるウルトラスもロシア大会ではこの「トロイカ」を応援ソングに採用した(98年フランス大会はフランスの歌手ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」、06年のドイツ大会は西ドイツの音楽グループ、ジンギスカンの「ジンギスカン」を採用)。 ▽日本対コロンビア戦の2日後、JFA主催の懇親会で田嶋会長と飲んだ時も、同世代ということもあり、スタジアムで流れている「トロイカ」は「小学生の頃に音楽の時間に歌った記憶がある」ということで意見が一致した。 ▽話を20年東京五輪に戻そう。大会公式テーマソングを作るのもいいが、海外から訪れる多くの観客や選手、関係者に対し、ロシアW杯で採用した「トロイカ」ように誰もが知っている馴染みの曲を使うのも1つの方法ではないだろうか。 ▽と提案したところで、世界的にヒットした日本の歌はというと、坂本九さんの「スキヤキ」か由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」くらいしか思いつかない。もしかしたら若い世代にはアニメソングの方が有名かもしれない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.06 19:00 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】大迫のブレーメン移籍で思い出す奥寺氏への愚問

▽29日のことだ。ブンデスリーガ1部のヴェルダー・ブレーメンに移籍した大迫勇也が、ドイツ北部のブレーメンの本拠地で入団会見に応じた。前所属の1FCケルンは2部に降格したための移籍だが、ケルンからブレーメンへの移籍といえば、誰もが思い出すのが日本人プロ第1号の奥寺康彦氏だろう。 ▽奥寺氏は77-78シーズンにJSL(日本サッカーリーグ)の古河からケルンへ移籍し、同シーズンにはリーグ優勝とドイツカップ優勝の2冠に輝いた。当時の奥寺氏は強烈な左足のシュートを武器にした左ウイングで、ケルンというチーム自体もバイエルン・ミュンヘン、ボルシア・メンヘングラッドバッハと優勝を争う名門クラブだった。 ▽奥寺氏はその後、同リーグ2部のヘルタ・ベルリンを経て1部に昇格したブレーメンへと移籍を果たす。当時のブレーメン監督オットー・レーハーゲル氏(2004年にポルトガルで開催されたEUROではギリシャを率いて初優勝を遂げる)は、奥寺氏をウイングから3-5-2の左ウイングバックに起用。そこで同氏は労を惜しまぬ豊富な運動量と、堅実で安定した守備からレーハーゲル監督にも高く評価され、地元メディアも「東洋のコンピューター」と賞賛した。 ▽そんな奥寺氏は78年の第1回ジャパンカップ(現キリンカップ)にケルンの一員として、82年のジャパンカップ・キリンワールドサッカーと、86年のキリンカップサッカーではブレーメンの一員として3度の凱旋帰国を果たしている。 ▽その中で82年はスペインW杯の開催された年だが、この年にサッカー専門誌に入社した若造は、無謀にも奥寺氏にインタビューを申し込んだ。当時はJFA(日本サッカー協会)にも広報担当者はいなかったため、帰国した奥寺氏に対し、たぶんブレーメン付きのJFA職員を通じてインタビュー取材をお願いしたのだと思う。もちろんノーギャラだった。 ▽奥寺氏に指定されたのは宿泊先である東京プリンスホテル1階にある喫茶店だった。そこで移籍の経緯や現地での苦労話を聞きつつ、「プロとアマチュアの差はなんですか」という愚問をぶつけた記憶がある。すると奥寺氏は人差し指と親指で示しつつ、「1人1人の差は小さいけれど、それが10人になるとものすごく大きな差になるんだよ」と両手を広げながら教えてくれた。 ▽しかし大学を出たての新米記者にはその真意が理解できず、奥寺氏のコメントをそのまま原稿にした恥ずかしい記憶がある。 ▽きっと奥寺氏は、選手個々人の瞬時の判断スピード、戦術理解度、ボールを止めて蹴るといったプレースピードやパススピードなどの差がチームとして積み重なった時に、プロとアマチュアでは大きな差になると言いたかったのだろう。その言葉通り、ブレーメンは4試合で15ゴールを奪う攻撃力で初優勝を果たした。 ▽この年のキリンワールドサッカーは2年後のロス五輪出場を目指す森ジャパンのスタートとなった年でもあった。エースストライカーの尾崎加寿夫がフェイエノールト戦で4ゴールを奪う活躍で5-2と大勝するなど2位に躍進し、ブレーメンのテスト生として来日した19歳のフランク・ノイバートと得点王に輝いたことも明るい話題だった。 ▽話を大迫に戻そう。奥寺氏がブレーメンで活躍したのは82-83シーズンから85-86シーズンまでの5シーズンだった。あれから30年以上が過ぎ、当時は10歳だった少年も不惑の40代を迎えている。それでも奥寺氏の活躍を覚えていれば、それを大迫に重ねて声援を送ってくれるのではないだろうか。 ▽奥寺氏が移籍して以来、チームは1度も2部に降格したことがないだけでなく、優勝争いを演じる強豪へと成長した時代もあった。かつての栄光を再び取り戻すことができるのか。今シーズンもブレーメンを始め、ブンデスリーガからは目が離せそうにない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.07.31 12:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ロシアW杯総括

▽ロシアW杯の決勝から10日あまり。次期日本代表の監督は森保氏の就任が濃厚だが、ロシアW杯における日本代表を総括した話は一切聞こえてこない。西野前監督が短期間にもかかわらずベスト16に進出したことで、これまであった「主力選手がヨーロッパで活躍しているのだから、監督もヨーロッパで実績のある外国人を起用すべき」といった意見はなし崩しに霧消したようだ。 ▽そんなロシアW杯で、フランス対クロアチアの決勝戦は今大会を象徴するようなゴールが生まれた。まず前半18分、それまで守勢一方だったフランスは右FKからマンジュキッチのOGで先制する。それまで1本もシュートを放っていないフランスが先制したのはちょっとした驚きだった。 ▽決勝戦が見応えのある好ゲームになったのは、3試合連続して延長戦を闘ったクロアチアが、守備を固めてカウンターを狙うのではなく攻撃的なサッカーを展開したからだ。前半28分の同点ゴールもFKからの流れで生まれた。 ▽そしてフランスの勝ち越しゴールは今大会から採用されたVARによるPKからのもの。賛否両論のあるVARだが、PKの判定が下されるまで3分ほどの中断期間があったのは正直興ざめした。決勝戦に限らず、オフサイドの判定もラインズマンが旗をあげるタイミングが遅いのもVAR導入の影響だったが、今後も改善の余地は多々あるように感じた。 ▽そのフランスの追加点は攻勢に出たクロアチアの隙をついたカウンターからだった。近年のW杯はボールを奪ってから15秒以内のカウンターとセットプレーからゴールが生まれる傾向があると指摘されてきたが、ロシアW杯はさらにセットプレーからのゴール、とりわけヘディングによるゴールが増えた印象が強い(特にイングランド)。 ▽各国とも代表はームは強化する時間は限られている。そこで短期決戦を乗り切るには「個の力」によるカウンターとセットプレーがカギになることを示したのがロシアW杯だった。フランスのムバッペ、イングランドのスターリング、そしてベルギーのE・アザールやデ・ブライネらベスト4に進出したチームにはいずれも俊足のアタッカーを擁していた。 ▽そうした中で大会MVPを獲得したクロアチアのモドリッチは、「クラシカルなセントラルMF」だけに、貴重な存在でもある。彼をMVPに選出したFIFA(国際サッカー連盟)のテクニカルスタッフも、モドリッチのファンタジーあふれるプレーに、ヨハン・クライフらかつての名選手に通じるノスタルジーを感じたのかもしれない。 ▽翻って日本である。失点は大会前のテストマッチからカウンターとセットプレーが多いと指摘されてきた。それが本大会でも続いたわけだが、それは日本に限ったことではないことがW杯でも証明された。こちらに関しては、技術委員会がどのようなレポートを作成するのか注目したい。 ▽最後に、ロシアW杯の期間中は多くのロシア人から「日本のファンになった」と声を掛けられた。夜行の寝台車で同席したポーランドのサポーターからも「日本はいいチームだ」と言われた。知人の記者はカザフスタンのファンから「ずっと日本を応援していた。なぜならアジアの代表だから」と言われたそうだ(カザフスタンはヨーロッパに所属しているにもかかわらず)。 ▽こんなことは、ベスト16に進出した02年日韓W杯や10年南アW杯でも言われた記憶がない。それだけコロンビア戦の勝利、ポーランド戦の時間稼ぎ、そしてベルギー戦の奮闘が多くの人々の印象に残ったからだろう。 ▽ただ、冷静に振り返ってみれば、西野監督はグループステージを1勝1分け1敗で通過した。トルシエ・ジャパンは2勝1分け、岡田ジャパンは2勝1敗でベスト16に進んでいる。数字的にはギリギリのグループステージ突破だったが。ポーランド戦以外はゴールを目指した攻撃的なサッカーが他国のファンを魅了したのだろう。 ▽記録としてはたいしたことはないものの、記憶に残る闘いを演じたのがロシアW杯の日本代表と言える。 ▽6月上旬に日本のベースキャンプ地であるカザン入りしてから6週間を現地で過ごした。カザンでは「ワールドカップ」と言っても話は通じず、現地の人々からは「チャンピオンシップね」と訂正された。それだけ認識のズレがあったのだろう。 ▽しかし大会が進むにつれて「ワールドカップ」は浸透し、ヴォルゴグラードで知り合った女性記者は「ワールドカップって、スタジアムに人々が集うだけじゃないのね。街の中心街にある広場やレストラン、夜にはバーにも世界各地から来た人々でいっぱい。こんなことは今までのロシアにはなかったことだわ」と興奮気味に話していた。 ▽南ア、ブラジル、ロシアと3大会連続して広大な大陸を取材したが、いつも勝者は開催国かもしれない。新たなマーケットの開発と獲得というFIFAの深謀遠慮を改めて感じたW杯。そして次は初めて中東・カタールでの開催だ。大会期間中の7月11日からカタールは、大会PRのためのブースをモスクワ川に面したゴーリキーパークに設置した。さらに市内中心部の、赤の広場に面した高級デパート「グム」や繁華街でもPRイベントを実施した。 ▽こちらも関係者を取材したので、別の機会に紹介したい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.07.24 18:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】やはり3決はテンションが上がらず再考が必要か

▽長かったロシアW杯も、7月15日の決勝戦でフランスがクロアチアを4-2で下し、20年ぶり2回目の優勝で幕を閉じた。正直な感想は、「やはり、そう簡単に新たなW杯優勝国は出現しないな」というものだった。 ▽それでもクロアチアはよく頑張ったと思う。3試合連続して延長戦を戦った後での決勝戦。にもかかわらず、守備を固めてカウンターを狙うのではなく、試合開始から積極的に攻撃を仕掛けた。彼らのそうした姿勢が、ともすれば“ガチンコ勝負”で退屈な試合になりがちな決勝戦を盛り上げたのだと思う。 ▽これでW杯は4大会連続してヨーロッパ勢が制覇した。ブラジルをはじめアルゼンチンやウルグアイといった南米ビッグ3がこれほど早い段階で姿を消したのは、組み合わせのせいだけではないだろう。 ▽そうした大会全体の総括や決勝戦のレビューについては今週木曜のコラムに譲るとして、今回は3位決定戦について考察してみた。 ▽大会前のイングランドは、けして下馬評の高いチームではなかった。ダイア-、スターリング、ケインら若返りに成功したとはいえ、得点力不足に課題を抱えていた。グループステージではパナマに6-1と大勝するなど2位でラウンド16に進出し、コロンビア(PK戦)とスウェーデンを連破したことで52年ぶりのベスト4に進出した。 ▽しかし準決勝でクロアチアの前に延長戦で力尽きて3位決定戦に回った。それでもイングランドにとっては66年イングランド大会の優勝に次ぐ最高成績を残すチャンスだった。それは対戦相手のベルギーも同様で、86年メキシコ大会の4位(3決でフランスに敗退)を上回る絶好の機会だ。このため好ゲームを期待したのだが……。 ▽イングランドにとって、クロアチアとの延長戦に加え中2日(ベルギーは中3日)の日程は体力的に厳しかったのかもしれない。さらに、ベルギーはイングランドの長所を見事に消してきた。 ▽今大会のイングランドの基本システムは3-5-2で、3バックの前に攻守のつなぎ役としてヘンダーソンを置き、インサイドハーフは右リンガード、左アリで、左右のウイングバックにトリッピアーとヤングを配し、ケインとスターリングの2トップというフォーメーション。 ▽左右のウイングバックは守備時にDFラインまで下がり5バックとなるが、特徴的だったのはマイボールになると左右に大きく開いていたことだ。ボールを持ってカットインすることも、ダイアゴナルランでゴール前に飛び込むこともほとんどない。コンパクト&スモールフィールドが常識の現代サッカーにおいて、異質とも言えるスタイルだった。 ▽左右に大きく開くことで、サイドチェンジは有効になる。しかしDFトリッピアーとヤングに与えられた役割は、2トップと彼らとの間にオープンスペースを作ることだった。意図的に味方の選手と距離を取ることで、相手DF陣をワイドに広げる。そしてできたスペースにインサイドハーフのリンガードやアリが侵入して3トップや4トップを形成する。準々決勝で対戦したスウェーデンは彼らを捕まえきれずに苦戦した。 ▽ところが3位決定戦のベルギーは、いつもの3バックに加え、サイドハーフのムニエとシャドリが戻り5バック気味にしてスペースを消したことと、イングランドはリンガードとアリ、ヤングをベンチスタートにしたため前半の攻撃は手詰まり状態が続いた。 ▽なんとか後半は選手交代から攻撃は活性化したものの、決定機は後半25分にワンツーからダイア-が抜け出しGKと1対1になったシーンのみ。体力、技術、戦術ともベルギーが1枚上手だった。スコアこそ0-2だったものの、ベルギーの完勝と言える。 ▽正直、試合内容は期待を裏切られた。イングランドの実力からすれば、それも仕方ないかもしれないが、両チームとも勝つか負けるかで「天国と地獄」というヒリヒリするような緊張感は、残念ながら今回の3位決定戦にもなかった。 ▽そして表彰式では、敗れたイングランドの選手は表彰されるベルギーの選手をピッチで見守るだけで、セレモニーが終わると静かにピッチを後にした。敗者が残る必要があるのか疑問の残るセレモニーである。 ▽敗者はもちろんのこと、勝者にも笑顔のない3位決定戦。6万を越える大観衆を集め、興業的には大成功かもしれないが、改めて存在意義を見直す必要があるのではないだろうか。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.07.17 14:00 Tue
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