【六川亨の日本サッカーの歩み】親子で天皇杯制覇の偉業達成2018.01.02 07:00 Tue

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▽第97回天皇杯の決勝が1月1日に埼玉スタジアム2002で行われ、C大阪としては初、前身のヤンマー時代を含めれば43大会ぶり4度目の優勝を果たした。天皇杯にまつわる昔話は先週も紹介したが、今回は珍記録が誕生したので振れておきたい。

▽試合は柏との準決勝で負傷した扇原を欠きながらも、横浜FMが得意のカウンターで先制した。開始8分、下平のタテパスに伊藤が抜け出しGKとの1対1から冷静に流し込んだ。これに対しC大阪は後半20分、水沼のシュートのこぼれ球から、最後は山村が押し込んで同点に追いつく。その後は両者とも譲らず試合は延長戦に突入した。

▽すると延長前半5分、山村の左クロスを水沼が頭で押し込んで決勝点を奪ったのだった。

▽水沼と尹晶煥監督は鳥栖時代からの師弟関係にあり、尹晶煥監督が「水沼は僕のことを知り尽くしているので気をつける必要がある」と記者を笑わせながらも、「2017年の1年を順調にいけたのは水沼がいたおかげ。なぜなら僕の考えを選手に伝えてくれて、僕のできない仕事を陰でやってくれた」と感謝の言葉を述べた。

▽水沼は2016シーズン、鳥栖から城福監督の誘いに応じてFC東京に移籍した。しかし右MFには阿部や河野、東らライバルが多く、なかなかレギュラーに定着できなかった。心機一転、尹晶煥がC大阪の監督に就任するタイミングで2017年にレンタル移籍すると、正確なクロスで攻撃陣をリード。その結果、ルヴァン杯に続き天皇杯と自身初となる2冠に輝いた。

▽で珍記録というと、もうわかった読者もいるかもしれないが、今回の優勝で水沼宏太は“親子”で天皇杯を獲得したことになった。これまでも“兄弟”で天皇杯を制した例はある。1988年度の第68回大会で優勝した、横浜FMの前身である日産では、柱谷幸一と哲二の兄弟が天皇杯を獲得した。1996年度の第76回大会で優勝したV川崎(現東京V)では、三浦泰年とカズ(知良)の兄弟が天皇杯を制している。

▽しかし“親子”となると、なかなかいない。恐らく97回の歴史を振り返っても初となる記録ではないだろうか。ちなみに父親である水沼貴史氏は、1993年度の第63回大会で初優勝を果たして以来、1992年度の第72回大会まで通算6度の天皇杯優勝に貢献している。これはこれで、凄い記録でもある。

▽そして水沼貴史氏が初優勝した第63回大会で対戦した相手は、今回と同じヤンマーだったことにも因縁を感じてしまう。思い出深いのは、この試合が不世出のストライカーと言われた釜本氏のラストゲームでもあったことだ。釜本氏は監督兼任でチームを率いていたが、1982年に右アキレス腱を断裂。1983年11月に復帰したが、すでに39歳ということもあり、天皇杯で勝ち進むにつれ元旦で現役を引退することが濃厚だった。

▽9年ぶり4度目の優勝を目指した釜本ヤンマーだったが、23歳の水沼貴史や22歳の柱谷幸一ら有望な新戦力を補強した日産に0-2と敗れタイトル獲得は果たせなかった。そのリベンジを34大会ぶりに水沼がC大阪で成し遂げた。対戦相手がジュニアユース時代から世話になり、17歳でプロデビューを飾った横浜FMということにも見えない糸を感じてならない天皇杯だった。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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キリン杯誕生の秘話/六川亨の日本サッカーの歩み

▽10月12日、日本対パナマ戦の国歌斉唱の時のことだった。整列している選手の後ろのピッチ中央に「THE OFFICIAL PARTNER SINCE 1978」と書かれたフラッグがあった。「そうか。キリンカップがスタートして、もう40年になるのか」と感慨深いものがあった。 ▽キリンカップ(当時の名称はジャパンカップ)が始まったのはいまから40年前の1978年5月20日だった。当時のアジアにはマレーシアのムルデカ(マレー語とインドネシア語で独立の意味)大会、韓国の朴(当時の大統領)大統領杯などの招待大会があった。しかしジャパンカップはヨーロッパと南米の強豪クラブに、アジアの代表チームと日本代表を加えた豪華な大会としてスタートした。 ▽第1回大会は奥寺康彦さんが所属する1FCケルン(GKは西ドイツ代表のハラルド・シューマッハー)とボルシア・メンヘングラッドバッハ(GKウォルフガング・クレフとユップ・ハインケスは西ドイツ代表で、アラン・シモンセンはバロンドールを獲得したデンマークの伝説的な選手)、コベントリー・シティ(イングランド)、パルメイラス(ブラジル)の4クラブに、韓国代表、タイ代表、そして日本代表と日本選抜の8チームにより争われた。 ▽8チームを4チームずつ2組に分かれてリーグ戦を行い、上位2チームが準決勝に進む大会形式だった。当時の日本代表の主力選手は永井良和、金田喜稔、西野朗、加藤久らで、長らく代表を支えたメキシコ五輪組は一線を退いたものの、逆に代表チームは低迷期に突入していた。 ▽日本はコベントリー・Cに0-1、タイ代表に3-0、ケルンに1-1で準決勝進出は果たせなかった。ベスト4はいずれもヨーロッパと南米が占め、ボルシアMG対パルメイラスの決勝は1-1の引き分けに終わり両チーム優勝となった。 ▽当時のイングランド勢は代表チームもクラブチームもヘディングの強さは世界1と言っていいほど図抜けていた。このためケルン対コベントリー・C戦でのケルンは、空中戦を封じるためオフサイドトラップを積極的に仕掛けたが、最終ラインをセンターサークルまで上げたのは衝撃的だった。 ▽翌年の第2回大会にはイタリア代表のジャンカルロ・アントニョーニ率いるフィオレンティーナや、前年のアルゼンチンW杯で優勝したリカルド・ビジャ、オズワルド・アルディレス(後に清水の監督)を擁するトッテナム・ホットスパー(後に清水の監督に就任したスティーブ・ペリマンも来日してプレー)など8チームが参加(優勝はトッテナム)。W杯優勝チームの選手が来日したのは滅多にないことだった。 ▽このジャパンカップだが、JFA(日本サッカー協会) の長沼健(故人)専務理事が、まだ原宿にある岸記念体育館(日本のアマチュアスポーツの総本山)の3階にあったサッカー協会の部屋の窓からJR山手線の線路を挟んで建っていたキリンビールの本社ビル(現在は移転)を眺め「ああいう大きな会社に支援をお願いできないものか」と思案し、人伝に同社とアポを取り、キリンビールの小西秀次社長(当時)に直談判した結果、冠スポンサーを実現させたと言われている。 ▽2002年の日韓W杯終了後、2003年にJFAはW杯などで得た資金でお茶の水にある三洋電機からビルを購入。通称JFAハウスとしてサッカー協会とJリーグ、JFLなどの事務局を9月に移転した。地下には2002年のW杯を記念した日本サッカーミュージアムを12月22日に開設。オープニングイベントとして、サッカー関係者からサッカーにまつわる思い出のグッズを説明文つきで掲示する企画があり、その取材を手伝うことになった。 ▽ベルリン五輪のメンバーだった鴇田正憲さん(翌年没)、漫画家の望月三起也さん(故人)や奥寺康彦さんら40人近くの方々を電話や会って直接取材したが、その中の1人にキリングループの広報の方もいた。取材テーマは「ジャパンカップ誕生秘話」だったが、八丁堀にある本社を訪ねて広報の方を取材したものの、「ジャパンカップ誕生にまるわる資料は一切ありません」との返事。 ▽長沼さんがサッカー協会からキリンビールの本社を見てジャパンカップのスポンサーをお願いしたエピソードはもちろん知っていたが、それについては「都市伝説のようなものではないでしょうか。伝説は伝説として残しておこうとということで、肯定も否定もしません」との返事だった。 ▽現在キリンのホームページには「KIRINサッカー応援の歴史」というコーナーがあり、「支援のはじまり」では大会の誕生した経緯が、上で紹介したように長沼さんと小西社長との出会いがきっかけだったと書かれている。広報の方が言ったように「伝説は伝説として残して」あるのだ。 ▽実は長沼さんがJFA最高顧問の時に、ジャパンカップ誕生の真相を聞いたことがある。しかし「伝説は伝説として残しておく」ため、真相を書くことは控えたい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.16 14:00 Tue
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記録更新なるか。かつてない激戦の残留争い/六川亨の日本サッカーの歩み

▽J1リーグも10月7日で第29節を終了。代表ウィークのため2週間ほど中断されるが、今シーズンも残り5試合(札幌とC大阪、湘南、磐田は残り6試合。名古屋は7試合)となった。首位の川崎F対鹿島戦は0-0のドローだったが、2位の広島(勝点56)は柏に0-3と完敗。それでも両チームの勝点差は1しかない。数字上は8位のC大阪まで優勝の可能性を残しているものの、3位の鹿島(勝点46)と川崎F(勝点57)は11勝点差もあるだけに、優勝争いはほぼ2チームに絞られたと言っていいだろう。 ▽一方、下位に目を向けると勝点30で17位の鳥栖はフィッカデンティ監督の解任が決定的と見られているが、近年まれに見る大混戦となっている。現時点で自動降格圏を脱出しているのは4位のFC東京(勝点46)まで。オリジナル10でJ2に降格したことがない横浜FM(勝点38)も、まだ安全圏にいるとは限らない。 ▽J1リーグが現行の18チームになったのは2005年のこと。以来、最下位で降格したJ1チームの最多勝点は09年のジェフ千葉で、勝点は27だった(それに続くのが17年の大宮の25)。ところが今シーズンは、5試合を残してすでに最下位の長崎が勝点27とタイ記録に並んでいる。長崎が残り5試合で1勝でもすれば勝点は30台に乗り、すべてのチームが年間の勝点で30以上という、かつてないハイレベルな残留争いになる。 ▽こうした大混戦の原因は、他ならぬ長崎にあるだろう。これまでの降格パターンで多かったのが、J2昇格組が“1弱"ないしは“2弱"という状況から1シーズンでJ2に舞い戻ることだった。06年の京都(勝点22)、07年の横浜FC(同16)、08年の札幌(同18)、10年の京都(16)と湘南(19)、11年の山形(21)、13年の大分(14)、14年の徳島(14)がこのパターンだ。京都以外はどのクラブも親会社のないチームで、財政的に厳しい状況のため、J1に昇格しても大型補強ができずJ2降格の憂き目に遭っている。 ▽しかし長崎は初のJ1にもかかわらず清水、G大阪、柏、磐田、FC東京、仙台を倒し、名古屋からは2勝をあげているのは立派。残り5試合は磐田、鳥栖、横浜FM、G大阪、清水と前半戦で勝利をあげている“相性の良い相手"かもしれない。 ▽いずれにせよ、J1残留争いは最終節までもつれ込むことになるのではないだろうか。名古屋は消化試合が2試合少ないため、11月は3日と6日が中2日の連戦となるのがどう影響するのか。柏と湘南はルヴァン杯でベスト4に勝ち残っていて、準決勝で激突するためどちらか1チームは決勝戦に進出する。タイトルか残留かで両チームの指揮官も頭を痛めていることだろう。 ▽最後に08年は勝点37の東京Vが17位でJ2に降格した。10年はFC東京が36点の16位、12年は38点で17位のG大阪と、39点で16位の神戸がJ2行きを余儀なくされた。今シーズンはJ2降格の最多勝点記録を更新するのかどうかも見物だ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.09 17:30 Tue
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コパ・アメリカは辞退か? /六川亨の日本サッカーの歩み

▽マレーシアで開催されているU-16アジア選手権で、日本は準々決勝でオマーンに2-1で競り勝ちベスト4に進出。来年ペルーで開催されるU-17W杯の出場権を獲得した。日本の出場は2大会連続9度目となる。 ▽そして今日は今月ジャカルタで開催されるU-19アジア選手権に臨む日本代表のメンバーが発表された。こちらは来年ポーランドで開催されるU-20W杯の出場を目指すが、久保建英(横浜FM)らの目標はポーランドでのW杯だけでなく、20年の東京五輪も視野に入っている。今後は8月のアジア大会に出場したメンバー(U-21日本)との競争になるが、切磋琢磨して五輪ではメダルを目指して欲しいものだ。 ▽そんな来年は、サッカー界にとってイベントが目白押しだ。まず1月にはUAEでアジアカップが開催される。森保ジャパンにとって初の公式大会で、目標は最多5度目となる優勝しかありえない。そしてアンダーカテゴリーのW杯に加え、6月にはなでしこジャパンがフランスで開催される女子W杯に臨む。 ▽問題は6月から7月にかけてブラジルで開催されるコパ・アメリカだ。日本は1999年と2011年の2回、同大会に招待されている。1910年に創設された世界最古の大会だが、2011年は東日本大震災のため参加を見送った。 ▽初参加の99年はトルシエ・ジャパンが参戦したものの、初戦でペルーに2-3と敗れると、続く地元パラグアイ戦は0-4の完敗。トルシエ監督が名波浩を名指しで「戦えない選手」と批判すれば、名波も記者陣にトルシエ監督への不満を表明するなど、チームは分解寸前。そして最終戦はボリビアと1-1で引き分け、最下位でグループステージを終えた。 ▽個の力、ドリブル突破によるカウンターに当時の日本は手も足も出なかった。パラグアイ戦の帰り道、地元ファンから「ジャパン ゼロ(0)、パラグアイ クワトロ(4)」と何度もからかわれた。初めてのコパ・アメリカで惨敗したことと、選手との求心力を失ったことで、トルシエ監督の解任論が噴出したものの、最後は岡野JFA会長がトルシエ監督の続投を決めたため、2002年の日韓W杯まで指揮を執ることになった。 ▽以来、20年ぶりのコパ・アメリカだが、日本が参加するかどうかJFAの関係者はいまもって未定だと言う。というのも、アジアカップと違ってコパ・アメリカには選手を招集するにあたり強制権がない。海外組はオフのため招集は難しいし、Jリーグの各クラブもシーズン中のため選手を出すことに二の足を踏む可能性が高いからだ。 ▽本来なら五輪代表の強化に最適だが、板倉(仙台)、立田(清水)、杉岡(湘南)、岩崎(京都)らは所属チームでレギュラーだ。アジア大会は1チーム1名という制約つきで招集したが、それでも参加を断ったクラブもある。だからといって大学選抜で臨んでは、相手にとって失礼だろう。 ▽日本以外の招待国はW杯開催を控えるカタールで、W杯をアピールする絶好の機会だけにベストメンバーを送り込んで来るだろう。南米連盟が日本を招待するメリットは、放映権料や場内の看板、大勢の報道陣やファン・サポーターなどがもたらすジャパンマネーだが、中途半端なチームではそれも期待できない。 ▽ここは残念だが、11年同様に参加を見送った方が賢明な判断と言えるのではないだろうか。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.02 18:30 Tue
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神戸とイニエスタの前途に期待すること/六川亨の日本サッカーの歩み

▽週末はJリーグの取材がルーティンとなっている。先週末の日曜は浦和対神戸の試合を取材した。往路、高速で事故渋滞に巻き込まれたため、埼玉スタジアムに着いたのは試合開始1時間を過ぎていたが、到着そうそう知り合いの記者から「イニエスタはベンチにも入っていないので、帰った記者もいますよ」と教えられた。さすがに帰りはしなかったものの、今シーズン最多となる5万5689人のファン・サポーターもがっかりしたことだろう。 ▽そして、それ以上にがっかりしたのが試合内容だった。8位神戸対9位浦和の試合だから仕方ないのかもしれないが、両チームともただパスを回すだけで、シュートまで持ち込むことができない。「今シーズン見た中で最低の試合内容だな」とつぶやくと、隣に座っていたサッカー専門誌の編集長も「そうですね」と同意してくれた。 ▽浦和はペトロヴィッチ監督が去り、柏木ら主力も高齢化したため、19歳の橋岡をスタメンで起用するなど若返りを図りつつ、オリヴェイラ監督の下カウンタースタイルへとモデルチェンジ中だ。それがハマったのが興梠の2点目であり、武藤の3点目だった。 ▽柏木のタテパス1本から興梠が抜け出し、GKの鼻先でコースを変えるシュートは興梠らしいゴールだった。そして武藤は、自陣ペナルティーエリア内で武藤を抜こうとした高橋からボールを奪うと、至近距離ながらGKの頭上を抜く鮮やかなループシュートを決めた。 ▽問題は神戸である。ボールポゼッションで浦和を上回ったが、それは浦和がブロックを作って守備を固め、カウンター狙いだったからに過ぎない。自分たちで「ボールを握った」のではなく、「持たされていた」に過ぎない。にもかかわらず、アバウトなパスミスでボールを失うなど、パスをつないでいても「どう崩すのか」という攻撃の意図がまるで見えない。 ▽イニエスタがいないため仕方がないのかもしれない。そのため前線に長沢とウェリントンという長身のストロングヘッダーを起用したのだから、シンプルにクロスを上げてもいいのだが、その精度が低い。ポドルスキは彼らの高さを生かすクロスを入れていたが、彼1人ではどうしようもない実力差を感じた試合だった。 ▽この試合を、就労ビザの関係でスタンドから三木谷オーナーと見守ったリージョ新監督も、自身の前途が多難だと思ったのではないだろうか。神戸がバルサ化を目指すのは理解できる。そのためのイニエスタでありリージョ監督であり、ピケの獲得も狙っていると噂されている。しかし数人のOBでバルサ化できるほどサッカーは簡単ではない。 ▽バルサがバルサなのは、メッシを始めほとんどの選手が各国の代表でもトップクラスというクオリティーの高さにある。翻って神戸の日本人選手に代表クラスは皆無である。正直、「このメンバーでよく8位にいるな」というのが久しぶりに神戸の試合を見て抱いた印象だった。 ▽ロシアW杯など短期決戦の大会では、ボールを保持するポゼッションサッカーよりもカウンターかセットプレーの方がゴールの確率は高まる傾向にある。しかし欧州の各国リーグではバルサやレアル、マンチェスター・C、バイエルンのようにポゼッションサッカーで相手を凌駕しているという事実もある。 ▽今後、神戸がどういうサッカーを選択するのか。イニエスタというビッグネームを獲得した効果は5万人を越える観客を動員したことでも証明された。本来ならダゾーンから優勝資金を得た川崎Fや、首都圏の浦和、FC東京、G大阪といった大企業がバックにあるクラブがビッグネームを獲得してリーグを活性化するべきだろう。 ▽かつてC大阪はフォルランというビッグネームを獲得しながら結果が伴わずに降格した例もある。神戸の、三木谷オーナーのチャレンジが成功することが、Jリーグの活性化につながることを期待しているのは私だけではないだろう。なんだかんだと言っても、目の離せないイニエスタであり神戸でもある。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.09.25 18:00 Tue
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安室さんの引退で思い出す98フランスW杯【六川亨の日本サッカーの歩み】

▽安室奈美恵さんが9月16日のコンサートを最後に歌手活動から引退した。彼女の引退に、感慨深い思いを抱いているサッカーファンもいるのではないだろうか。 ▽遡ること20年前、98年のフランス大会で日本は初めてワールドカップの出場を果たした。当時は多くの旅行代理店がフランスW杯のツアーを企画。身近なところでは親族が新婚旅行にとツアーに申し込んだ。 ▽しかし日本戦のチケットは入手が困難で、親族の申し込んだツアーは中止になり、新婚旅行も取りやめに。あるツアーでは、現地入りしたものの全員分のチケットを確保できず、仕方なくじゃんけんでチケットを争うという、笑うに笑えない話もあった。 ▽こうして迎えた6月14日、トゥールーズでの初戦、日本対アルゼンチン戦でのことだった。試合前、大会公式ソングの「カップ・オブ・ライフ」がスペイン語でスタジアムに流れた。リッキーマーティンの公式ソングは英語で歌われたが、元々はスペイン語版を英訳したもの。それをあえてスペイン語版で流したのは、アルゼンチンのサポーターに向けてのメッセージだったのだろう。 ▽そして次に流れたのは、安室奈美恵さんの「CAN YOU CELEBRATE?」だった。前年の97年のヒットソングだが、意表を突かれた選曲だった。この曲をスタジアムで聴き、涙したのはファン・サポーターだけではなかった。取材した記者、カメラマンも97年のW杯最終予選の苦しさを思い出しつつ、あたかも彼女が日本のW杯初出場を祝福してくれているようで、大いに涙腺が緩んだものだ。 ▽大会組織委員会の粋な計らいでもある。試合はバティストゥータの決勝点で0-1と敗れるなど、初めてのW杯は3戦全敗に終わった。あれから20年、フランスが再びW杯を制し、安室奈美恵さんは歌手活動から引退した。 ▽彼女の名曲を耳にするたびに、チケット騒動も含めて熱狂的だったフランスW杯を思い出す人も多いのではないだろうか。 ▽余談だが、16年リオ五輪のグループリーグ最終戦、日本対スウェーデン戦の前にはABBAの「ダンシング・クイーン」がスタジアムに流れた。ABBAはスウェーデンを代表する名バンドだ。そこで次は日本のどのミュージシャンの、どんな曲がかかるのか期待したが、試合前の音楽はABBAの1曲だけ。肩すかしを食らいがっかりしたのを覚えている。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.09.18 17:00 Tue
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