【六川亨の日本サッカー見聞録】Jの秋春制移行は凍結されたが、十分な議論が尽くされたのか
2017.12.14 18:00 Thu
▽12月9日から始まった東アジアE-1選手権も、男子は明後日が最終日。日本は12日の中国戦を2-1で勝利して2連勝を飾り、首位に立っている。最終戦の相手である韓国は1勝1分けのため、日本は勝てばもちろん引き分けでも2大会ぶり2度目の優勝が決まる。この東アジアE-1選手権については来週のコラムに譲るとして、今週は12日に行われたJリーグの理事会で、秋春制へのシーズン移行を実施しないことを正式に決めたことを取り上げたい。
▽もともとJリーグのシーズン移行は、2000年代後半に実施するプランは古くからあった。しかし歴代のチェアマンは誰も手をつけることなく現行の方式で大会を重ねてきた。秋春制への移行を強く訴えたのはJFA(日本サッカー協会)の田嶋会長で、一昨年の会長選挙の公約の1つでもあった。
▽しかしながら現実には降雪地域のチームの練習や試合をどうするか、年度がまたがることによる試合会場確保の難しさ、親会社の決算期とのズレ、高校や大学生らの卒業後のブランクなど問題点は多々あった。
▽田嶋会長は降雪地域の冬季の試合は温暖な地域でアウェイゲームを組むことで解消できるし、公共施設の場合のスタジアム確保も、現在行われているプロバスケットボールのBリーグがクリアしているので、そちらを参考にしてはどうかと提案した。
▽むしろ田嶋会長は、そうした現場での問題以前に、ヨーロッパとシーズンを合わせることで、W杯など国際大会で国内のリーグ戦を中断せずにすむこと、W杯やアジアカップの予選をFIFA国際Aマッチデーのカレンダーに合わせやすいこと、選手や監督の行き来にタイムラグが生じないことなど、どちらかというと日本代表の活動がストレスなく行えることを主眼に置いていた。JFAの会長だけに、当然と言えば当然だ。
▽各大陸王者6チームに開催国と招待国の8チームでは、試合数も限られ、収益にも限界がある。それならクラブW杯を拡大して24チームにした方が、入場料収入もテレビ放映権も倍増が見込めるからだ。
▽それに対してJリーグ側は、先にあげた現実的にクリアしなければならない問題に加え、豪雪地域の設備投資には500億円もかかるという試算を出した。これらの費用をどこが負担するのかという、ものすごく高いハードルもある。こうした事情を踏まえ、実行委員の8割の反対により、Jリーグは秋春制へのシーズン移行を却下した。村井チェアマンは「サッカーの出来る期間が(中断期間が2回あり)1か月ほど短くなる。全体の強化や、ファンとの関係性を考えても大事なこと」などと見送りの理由を説明した。
▽過去、JSL(日本サッカーリーグ)は、秋春制を採用していた時期があった。1985年から最後のリーグ戦となった90―91シーズンの6年間だ。きっかけは85年に日本がメキシコW杯のアジア予選を勝ち抜き、最終予選に進出したことだった。翌86-87年は6月にメキシコW杯があり(日本に関係はないが)、9月にはソウルでアジア大会があった。そこでJSLは日本代表の強化のため自ら秋春制を採用した。
▽87-88年は日本がソウル五輪の最終予選に勝ち進んだため、リーグ戦は10月17日に開幕と、当時はリーグ側が代表強化のためにスケジュールを変更した。その理由としては、これまで“夢”でしかなかったW杯が現実的になり、五輪出場の可能性も高まったため、代表優先の機運が生まれたこと。当時のJSLで一番北にあったのは茨城県の住友金属で、雪の影響はさほど受けなかったこと。決算も親会社任せのアマチュアだったため融通が利いたことなどが考えられる。加えてプロ化への動きが本格化したことも――JSLは発展的解消の運命にあった――日程を変更しやすかった一因かもしれない。
▽ともあれ、Jリーグの春秋制継続は正式に決まった。田嶋会長も、「あくまで提案であって、Jリーグの決定を尊重する」と常々言っていた。そして秋春制へのシーズン移行は当分の間、凍結される。何か大きな問題でも生じない限り、再燃することはないだろう。
▽ただ、果たして十分に議論を尽くしての決定かどうかには、かすかな疑問が残る。それは、決定を下した実行委員(つまりは代表取締役社長)のうち何人が本気でクラブの将来を考えたのかということだ。
▽例えば札幌の野々村芳和氏や湘南の水谷尚人氏のように、背水の陣でクラブ運営に携わっている方々がいる。その一方で、親会社からの出向で、数年後には親会社に戻るか子会社へ転出する実行委員もいるだろう。彼らの間には、クラブに対する温度差は必然的に生じているはずだ。その温度差を踏まえての今回の決定かどうかに疑問を感じざるをえなのいだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
▽もともとJリーグのシーズン移行は、2000年代後半に実施するプランは古くからあった。しかし歴代のチェアマンは誰も手をつけることなく現行の方式で大会を重ねてきた。秋春制への移行を強く訴えたのはJFA(日本サッカー協会)の田嶋会長で、一昨年の会長選挙の公約の1つでもあった。
▽田嶋会長は降雪地域の冬季の試合は温暖な地域でアウェイゲームを組むことで解消できるし、公共施設の場合のスタジアム確保も、現在行われているプロバスケットボールのBリーグがクリアしているので、そちらを参考にしてはどうかと提案した。
▽むしろ田嶋会長は、そうした現場での問題以前に、ヨーロッパとシーズンを合わせることで、W杯など国際大会で国内のリーグ戦を中断せずにすむこと、W杯やアジアカップの予選をFIFA国際Aマッチデーのカレンダーに合わせやすいこと、選手や監督の行き来にタイムラグが生じないことなど、どちらかというと日本代表の活動がストレスなく行えることを主眼に置いていた。JFAの会長だけに、当然と言えば当然だ。
▽そして移行は12月にW杯が開催される2022年をテスト的なシーズンとし、2023年からの実施を訴えた。というのも2023年は6月に中国でアジアカップが開催される可能性が高いからだ。さらにFIFAは、コンフェデレーションズカップを2021年で終了し、代わりにクラブW杯を4年に1回、24チームによる大会へ衣替えするプランを持っている。
▽各大陸王者6チームに開催国と招待国の8チームでは、試合数も限られ、収益にも限界がある。それならクラブW杯を拡大して24チームにした方が、入場料収入もテレビ放映権も倍増が見込めるからだ。
▽それに対してJリーグ側は、先にあげた現実的にクリアしなければならない問題に加え、豪雪地域の設備投資には500億円もかかるという試算を出した。これらの費用をどこが負担するのかという、ものすごく高いハードルもある。こうした事情を踏まえ、実行委員の8割の反対により、Jリーグは秋春制へのシーズン移行を却下した。村井チェアマンは「サッカーの出来る期間が(中断期間が2回あり)1か月ほど短くなる。全体の強化や、ファンとの関係性を考えても大事なこと」などと見送りの理由を説明した。
▽過去、JSL(日本サッカーリーグ)は、秋春制を採用していた時期があった。1985年から最後のリーグ戦となった90―91シーズンの6年間だ。きっかけは85年に日本がメキシコW杯のアジア予選を勝ち抜き、最終予選に進出したことだった。翌86-87年は6月にメキシコW杯があり(日本に関係はないが)、9月にはソウルでアジア大会があった。そこでJSLは日本代表の強化のため自ら秋春制を採用した。
▽87-88年は日本がソウル五輪の最終予選に勝ち進んだため、リーグ戦は10月17日に開幕と、当時はリーグ側が代表強化のためにスケジュールを変更した。その理由としては、これまで“夢”でしかなかったW杯が現実的になり、五輪出場の可能性も高まったため、代表優先の機運が生まれたこと。当時のJSLで一番北にあったのは茨城県の住友金属で、雪の影響はさほど受けなかったこと。決算も親会社任せのアマチュアだったため融通が利いたことなどが考えられる。加えてプロ化への動きが本格化したことも――JSLは発展的解消の運命にあった――日程を変更しやすかった一因かもしれない。
▽ともあれ、Jリーグの春秋制継続は正式に決まった。田嶋会長も、「あくまで提案であって、Jリーグの決定を尊重する」と常々言っていた。そして秋春制へのシーズン移行は当分の間、凍結される。何か大きな問題でも生じない限り、再燃することはないだろう。
▽ただ、果たして十分に議論を尽くしての決定かどうかには、かすかな疑問が残る。それは、決定を下した実行委員(つまりは代表取締役社長)のうち何人が本気でクラブの将来を考えたのかということだ。
▽例えば札幌の野々村芳和氏や湘南の水谷尚人氏のように、背水の陣でクラブ運営に携わっている方々がいる。その一方で、親会社からの出向で、数年後には親会社に戻るか子会社へ転出する実行委員もいるだろう。彼らの間には、クラブに対する温度差は必然的に生じているはずだ。その温度差を踏まえての今回の決定かどうかに疑問を感じざるをえなのいだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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