【六川亨の日本サッカーの歩み】石川直宏の引退試合に思うこと2017.12.04 15:30 Mon

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▽先週末は慌ただしい日々が続いた。まず1日深夜、ロシアW杯の組分け抽選会があり、日本はコロンビア、セネガル、ポーランドとグループリーグを戦うことが決まった。第4シードということもあり、どこのグループに入っても苦戦は免れないものの、ベストではないがベターなグループだと思う。こちらについては、また別の機会に感想を書きたい。

▽そして2日はJ1リーグの最終戦。川崎Fが大宮に5-0と大勝し、鹿島が磐田と引き分けたため、川崎Fのリーグ初優勝が決まった。これまでシルバーコレクターに甘んじていた川崎Fがタイトルを獲得したことで、ルヴァン杯を制したC大阪も含め、Jリーグには新しい風が吹いてきたことが予感される。

▽そして3日はJ1昇格プレーオフで名古屋が福岡と引き分け、1年でのJ1昇格を決めた。J3でも秋田が初優勝を飾り、2位の栃木がJ2復帰を果たすなど、全国各地で様々なドラマがあった。そうした中で、2日と3日はFC東京の石川直宏の引退試合を取材した。

▽石川が横浜FMからFC東京に移籍したのは2002年のことだった。小学6年生の時に開幕したJリーグを国立で観戦し、「選手は何を考え、どんな思いでプレーしているのか知りたくなった」ことでプロのサッカー選手になることが夢になったという。その夢を叶えたものの、当時の横浜FMでは出番も限られていた。

▽そんな石川に声を掛けたのが、2001年にアルゼンチンで開催されたワールドユースを視察した原博実だった。原はFC東京の監督に就任すると石川にオファーを出す。迷っている石川の背中を押したのが、チームメイトの松田直樹(故人)だった。「東京でいまのプレーを続けていたらチームの顔になれる。チームの象徴として戦うことができる」と言われたため、完全移籍を決断した。

▽そして移籍した3日後の2002年4月27日、駒沢で行われたナビスコ杯初戦の清水戦で、44分にケリーのゴールをアシストする。

▽それから16年、FC東京一筋にプレーを続けたが、右膝前十字靭帯、椎間板ヘルニア、左膝前十字靭帯と相次ぐ負傷に見舞われ、日常生活で階段の上り下りにも苦労する生活を強いられた。「朝、起きてみないと膝の状態はわからない」という毎日ながら、ここ2年間はリハビリの日々を続け、ようやく昨シーズン、J3の試合に2試合ほど交代出場できるまで復活した。

▽そんな石川が現役引退を決断したのは今年の8月2日、奇しくも2年前のフランクフルト戦で左膝を負傷した日であり、奥さんの誕生日でもあった。引退試合はJ1最終節、12月2日のG大阪戦と、翌日のJ3C大阪戦。G大阪戦にはスタメンで出場し57分プレーした。不思議に「朝起きたら膝に痛みはなかった」と言う。そして「憧れのピッチにいるが、こんなに素晴しい、パワーのある場所とは知らなかった。全力でプレーできたことは誇りに思います」と、幼い頃からの夢を叶えてプロになれたことの感慨を口にした。

▽さらに翌3日のC大阪戦では後半37分から試合に出場。対戦相手のリザーブには「負けたくない1人だったし、本当に嫌な相手だった。彼の良さはポテンシャルを感じたし、ずる賢さ、クレバーなところ。本当に嫌な相手だった」という、かつてのチームメイトの茂庭がいた。

▽石川がピッチに入っても、C大阪ベンチに動きはない。するとFC東京のサポーターから「茂庭コール」が起こった。その雰囲気は、サッカー場といよりプロレス会場に近い。そして41分、茂庭がピッチに入った。

▽試合は43分に石川の左CKからFC東京が追加点を奪い、これが決勝点となって2-1と有終の美を飾った。試合後のセレモニーで石川は、「駒沢のアシストで始まり、駒沢のアシストで終われた」と自身のサッカー人生を振り返った。これも何かの縁なのだろう。

▽川崎Fの劇的な初優勝の陰で、1人のサッカー選手が注目を集めることなく引退したが、最後の勇姿を見られたことは幸せだった。駒沢には田中隼磨、塩田、権田、阿部らかつてのチームメイトや友人が駆けつけたことからも、石川の人柄を物語っていると言えよう。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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リベリーノのFKを田口が再現/六川亨の日本サッカーの歩み

▽12月9日に行われた第98回の天皇杯決勝は、浦和レッズがベガルタ仙台を1-0で下して第86回大会以来、12大会ぶり7度目(前身の三菱時代を含む)の優勝を果たした。決勝点は前半13分、右ショートコーナーからのクリアを宇賀神が右足ボレーで決めて奪取。アウトサイドにかけたシュートは曲がりながら落ちる見事な一撃で、日本代表GKシュミット・ダニエルもノーチャンスの鮮やかな一撃だった。 ▽その前日にはヤマハスタジアムでのJ1参入プレーオフ決定戦、ジュビロ磐田対東京ヴェルディを取材。試合は磐田がPKとFKから2点を奪い、J1残留を果たした。順当な結果とも言えるし、毎年のように主力選手をシーズンオフに引き抜かれる東京Vにしては、よく決定戦まで勝ち上がったと言ってもいいのではないだろうか。 ▽残念ながら11年ぶりのJ1復帰は果たせなかったが、11年前とは事情が違うので致し方ないのかもしれない。東京Vは2005年にJ1で17位となりJ2へ降格した。06年シーズンはラモス瑠偉氏を監督に迎えたものの7位に沈む。 ▽そこでチーム関係者は、クラブの“顔”とも言えるラモス監督に泥を塗ることはできないと判断し、出した結論は「監督が何もしなくてもJ1に昇格できるチーム作り」として大型補強に乗り出した。 ▽その後ブラジル代表として活躍することになるフッキとディエゴの外国人助っ人に加え、名波、服部、土屋らJリーグで実績十分の選手を獲得。その効果もあり07年は開幕から4勝1分けで順調な滑り出しを見せた。 ▽しかし第7節からワーストタイの7連敗を喫し、ラモス監督の解任説も流れたが、その後は立て直し、リーグ終盤は16試合負けなしで2位を確保。フッキが37ゴールで得点王に輝くなどしてJ1昇格を果たした(翌年ラモス氏はエグゼクティブダイレクターに就任し、柱谷哲二氏が監督に就任も、チームはJ2に降格)。 ▽新たなスポンサーを獲得したとはいえ、東京Vは往時のような大型補強は望むべくもないだろう。それでも“身の丈”に合ったクラブ経営と、選手育成でかつての黄金時代を取り戻して欲しいと願うファンは多いに違いない。 ▽話を参入プレーオフ決定戦に戻すと、2点目となった田口のFKを紹介したい。ゴール前やや右24メートルだっただろうか。壁を作った東京VのDF陣の間に2人の磐田選手が割って入った。そして田口のシュートは、壁の間に入った2人の選手が屈んだ空間を通過し、GKの手前でワンバンドして左スミに決まった。 ▽壁の間の味方のスペースを通過してゴールを初めて決めたのは、1974年の西ドイツW杯でブラジル代表のMFリベリーノが初めてだったと記憶している。前回大会で引退したペレの背番号10を受け継いだリベリーノは、2次リーグの東ドイツ戦で6人の壁に割って入ったFWジャイルジーニョが屈んだ隙間を通して決勝点を決めた。神業とも言えるゴールだった。 ▽あれから4半世紀、同じスーパーゴールを見ることができて、興奮もした。ところが試合後の田口は「いつも味方を立たせてGKからに見にくくさせるのをやっていましたし、壁の間を狙って練習していました。狙い通りです」とスーパーゴールにも冷静だった。 ▽このゴールを初めて決めたリベリーノについても「知りません」と素っ気ない返事。それよりも「チーム全員で必ず残留を決める。チームで一丸となって、強い気持ちで1週間練習してきた結果だと思います」と、自身のゴールよりJ1残留に力を込めていた。 ▽それでもスーパーゴールに変わりはないし、J1に残留したことで、また同じゴールを見られるかもしれない。そして対戦相手は壁の作り方を工夫した方がいいだろう。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.12.11 12:30 Tue
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アディショナルタイムの劇的ゴールの理由/六川亨の日本サッカーの歩み

▽先週末の土日は、J1リーグとJ3リーグの最終戦とJ1参入プレーオフ2回戦が行われ、様々なドラマがあった。 ▽まずJ1リーグでは、16位の名古屋が2点のビハインドをジョーのPK2発で追いつき、湘南と2-2のドロー。しかし、この時点では名古屋の16位は変らなかった。ところが等々力で行われた川崎Fvs磐田で、後半アディショナルタイム4分までスコアは1-1だったが、残り30秒で磐田のDF大井がOGを献上。12位の横浜FMから16位の磐田まで勝点41で並んだが、得失点差で磐田が16位に降格し、J1参入プレーオフに回ることになった。 ▽元々、得失点差でハンデのあった磐田だったし、最終戦の相手がリーグ連覇の川崎F。優勝を決めた試合とその後のFC東京戦もアウェイだったため、ホーム最終戦で連覇の報告ということでモチベーションも高いという不利な状況だった。 ▽ただ、まだ降格が決まったわけではない。東京Vとの一戦を勝つか引き分ければ残留が決まる有利な立場に変わりはない。 ▽その東京Vだが、こちらも劇的な勝利だった。横浜FCとの参入プレーオフ2回戦は0-0のまま7分のアディショナルタイムに突入。そしてラスト1分というところで東京Vは右CKにGK上福元が攻撃参加した。ニアサイドに飛び込んだ上福元はフリーでヘディングシュート。これは横浜FCのGK南がよく反応して弾いたが、ドウグラスが押し込んで“虎の子"の1点を守り切った。 ▽GK上福元のゴールとはならなかったが、11月24日のJ1リーグ、清水vs神戸で清水GK六反が同じくアディショナルタイムに左CKから同点ゴールを決めている。 ▽今シーズンはアディショナルタイムを18分も取ったレフェリーがいたり、大井や上福元のように劇的なゴールに絡んだりした選手がいた。このことについて、12年ぶりのJ1復帰の夢を断たれたカズの実兄である鹿児島の三浦泰年監督は、同日のJ3リーグ相模原戦後、「フットサルのようにアディショナルタイムが残り何分なのか表示すべきではないか。その方が両チームの監督、選手、ファン・サポーターも納得すると思う」と話していた。まったく同感である。 ▽さて、J1リーグでのGKのゴールは22年ぶりとなるが、「コーナーキックの時にGKが攻撃参加すると、意外とフリーになれるんですよ」と教えてくれたのがFC東京のGK林だった。その理由は「コーナーキックでは、誰が誰をマークするのか試合前に監督から指示があります。このためGKが上がっても誰もマークに来ません。自分のマークする選手を、監督の指示を守らずフリーにしてしまうことが怖いからです。あとはボールへの入り方ですね。六反選手の動きは参考になりました」とのことだ。 ▽確かに上福元はまったくのフリーでヘディングシュートを放っていた。林も最終戦の浦和戦でCKからのゴールを宣言していたが、残念ながらチームはアディショナルタイムにCKを獲得することはできず、自身の第二子を祝福するゆりかごダンスを演じるチャンスはなかった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.12.03 17:45 Mon
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久米さんの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

▽元日本代表で、現役引退後はJリーグの創設に尽力し、柏や清水、名古屋でGM(ゼネラルマネージャー)としてチームの強化に手腕を発揮した久米一正さんが11月23日、大腸がんのため逝去した。享年63歳という若さだった。 ▽久米さんは浜名高校から中央大学に進み、大学卒業後は日立のMFとしてJSL(日本サッカーリーグ)で活躍。豊富な運動量で攻守に貢献するスタイルは、北澤豪さんと似ていた。現役引退後は日立のマネージャーを務める傍ら、91年からはJSL事務局長としてJリーグの立ち上げに尽力した。昨年亡くなられたJリーグの創設者である木之本興三さんとも親交が深く、彼を慕う“木之本軍団”では宴会部長を務めるなど“気配りの人”でもあった。 ▽柏では西野朗監督を起用し、99年にナビスコカップで優勝。03年から07年までは清水で強化育成部長を務め、当時の監督だった長谷川健太氏は訃報に際し「いなければ私がここでみなさんの前で話すこともない。久米さんがいたからこそJリーグで長らく監督ができました。恩人です。エスパルスで辛いとき『監督、まだまだだから元気を出していきましょう』と暗くならず、明るく引っ張っていただいた。非常に残念ですし、Jに貢献したので、ご冥福を祈りたいと思います」と突然の逝去を惜しんでいた。 ▽08年からは名古屋のGMを務め、10年にはクラブに初となるリーグタイトルをもたらす。優勝を決めた湘南戦後、ピッチで祝福の声をかけると「六ちゃん、まだまだこれからだよ」と黄金時代の創設に意欲を見せていた。 ▽同年からは、JFA(日本サッカー協会)の強化技術委員も兼任し、原博実技術委員長や霜田正浩技術委員を支えた。14年に選手としてはこれといった実績もない霜田氏(元FC東京強化委員)が技術委員長に就任した際は、キャリア不足を指摘する声に対し、「Jクラブで(GMとして監督や選手の)切った張ったを経験していないと技術委員長は務まらない」と擁護。それはJリーグでの経験がない過去の技術委員長の、“机上の空論”を批判しているようにも感じられた。歯に衣きせず発言する、久米さんらしい言葉だったし、正鵠を射ていると納得したものだ。 ▽そんな久米さんの言葉で忘れられないのが、01年のこと。西野監督とは同級生でもあり、日立でもチームメイトだった。しかし当時は柏で監督とGMと立場は違う。第1ステージ終了後、6位に終わったことで久米さんは西野監督に「西野、辞めてくれ」と言わざるを得なかった。 ▽当時のことは西野さんも鮮明に覚えていた。それというのも当日は、お嬢さんの誕生日であり新車の納入日でもあったからだ。奥さんからは「大きくて邪魔になる」と言われながらも乗り続けているドイツ車。盟友である久米さんから宣告された“クビ宣言"は、西野さんにとっても予期せぬものだったのかもしれない。 ▽久米さんは「おまえはいいよな、(日立からの出向で身分が保障されて)“ぬくぬく”だよな」と言われたことは、かなりのショックだった。というのも、当時の親会社である日立は業績不振で、柏に資金を投入することができなかった。このため西野監督の希望する補強を久米GMは実現できなかったからだ。 ▽「西野には申し訳ないことをした。いつかまた、西野を監督に呼びたい」――それが当時の久米さんの本音だった。 ▽その思いは13年後に実現した。久米さんが名古屋のGMに就任して6年後の14年、西野さんは名古屋の監督に迎えられた。残念ながら2シーズン、チームを率いながら好成績を残すことはできず、西野さんと久米さんは16年にチームを去る。 ▽西野さんは18年のロシアW杯で日本代表監督としてベスト16に導く。一方の久米さんは今シーズンから清水のGMに復帰し、これからという時期での訃報だった。Jリーグ誕生後は選手、監督として脚光を浴びることのなかった久米さんだが、GMという職業を確立したのは間違いなく久米さんだったと思う。改めてご冥福をお祈りしたい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.26 16:45 Mon
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なでしこ対ノルウェーで思い出した選手/六川亨の日本サッカーの歩み

▽アジアのクラブNo1チームを決めるACL決勝第2戦が10日にテヘランのアザディ・スタジアムで行われ、第1戦を2-0で勝っていた鹿島は、第2戦もペルセポリスに0-0で引き分け、初のアジア王者に輝いた。 ▽国内タイトル19冠と日本最強クラブと言ってもいい鹿島にとって、唯一足りないのがACLのタイトルだった。Jリーグの黎明期である93年から95年は無冠に終わったものの、その後は黄金時代を築く。4-4-2の布陣から堅守速攻というスタイルは25年間変ることがない。むしろACLを勝ち抜くには格好のスタイルだとも思っていた。それがなぜかACLでは早い段階で脱落してきた。 ▽しかし今大会は準決勝のアウェー水原戦で1-3から同点に追いつく粘りを見せた。準々決勝からの6試合で5ゴールを稼いだ途中加入のセルジーニョの活躍が示すように、今大会は持ち味である堅守よりも攻撃的な姿勢が実を結んだと言える。 ▽12月12日からUAEで開催されるFIFAクラブW杯での活躍が楽しみだが、その前に鹿島は来シーズンのACL出場権獲得のためのリーグ戦と、天皇杯の準々決勝という負けられない試合も残っている。これまでも過密日程の中でACLを勝ち上がってきただけに、今回の優勝がプラスと出るのか、選手のメンタリティーにも注目したい。 ▽翌11日は鳥取のとりぎんバードスタジアムでなでしこジャパン対ノルウェーの親善試合が開催された。現コーチで、中学生でL(女子)リーグにデビューした天才少女の大部由美さんが鳥取出身のため地元での開催となったのだろう。 ▽試合は横山のFKから先制すると、岩渕も2ゴールをあげる活躍で4-1の大勝を飾った。ノルウェーは北欧のスウェーデンと並んで女子サッカーが盛んな国だ。95年の第1回女子W杯で優勝すると、00年シドニー五輪では金メダルに輝いた。過去の対戦成績は4勝3敗とほぼ互角。日本は96年アトランタ五輪、99年第3回W杯はいずれも0-4と大敗した。 ▽しかし07年の親善試合で初勝利(1-0)を奪うと、その後のなでしこジャパンは澤や宮間、永里らが中心選手となってチームを牽引しノルウェーに3連勝と立場は逆転する。そして08年の北京五輪ではベスト4に進出するなど、後のW杯制覇やロンドン五輪銀メダルの礎を築いた。 ▽前出した大部コーチが現役時代にデビューしたチームは日興證券ドリームレディースという名のチームだったが、そのチームで忘れられない選手がいる。ノルウェー代表として152試合出場64ゴールを記録したリンダ・メダレンという選手だ。92年に来日すると、いきなり最多ゴール、最多アシストの記録を達成。95年の第1回女子W杯でも優勝の原動力となっていた。 ▽そんな彼女の本職は婦人警官で、フルタイムで働きつつ、空き時間をサッカーに費やしていた。来日後は5ヶ月ほどLリーグでプレーすると、帰国後の7ヶ月は母国での警察官という生活を送っていたものの、94年からは日興證券ドリームレディースのプロ選手としてプレーし、96年にはチームを初優勝に導いた。 ▽96年から日本人選手もプロとなり、日興證券ドリームレディースはリーグ3連覇を果たしたものの、社業の業績悪化のため絶頂期である98年のシーズン中に廃部を決定。大部を始めサッカーを続ける選手は他チームへの移籍を余儀なくされた。 ▽98年といえば、横浜フリューゲルスの出資会社の1つである佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明。さらに親会社の全日空も赤字に陥ったことで、単独でクラブを支えることができない窮地に陥った。クラブを消滅させないためにJリーグが下した決断は、横浜マリノスとの合併だった。LとJで2つのクラブが消滅した98年でもあった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.12 19:00 Mon
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川口の引退/六川亨の日本サッカーの歩み

▽長らく日本代表の守護神を務めたGK川口能活(43歳)が、今シーズン限りで24年に及ぶ現役生活にピリオドを打つことを表明した。端正なマスクと抜群の反射神経の持ち主であり、礼儀正しい姿勢で多くのファンを虜にした。2001年10月にポーツマスへ移籍する際は、川口の大ファンというシンガーの竹内まりあさんとの食事会のセッティングをした。彼女いわく「ボーイフレンドなら松田直樹くん(故人)、結婚するなら川口能活くんかな」という例えに、素直に納得したものだ。 ▽川口のプレーについて、多くを語る必要はないだろう。アトランタ五輪でブラジルを倒した「マイアミの奇跡」、そしてジーコ・ジャパンで臨んだ04年に重慶で開催されたアジアカップの準々決勝ヨルダン戦のPK戦はいまでも語り草になっている。 ▽ブラジル戦では相手の28本のシュートを神がかり的なセーブで防ぎ、1-0の完封勝利に貢献した。ヨルダン戦では、斜めに助走する中村俊輔と三都主アレサンドロが濡れたピッチに立ち足が横滑りしてシュートを外し、日本は3人目が蹴った時点で1-3と絶体絶命のピンチに陥った。しかし、ここで立ちはだかったのが川口だった。 ▽ヨルダンの4人目のシュートを弾き出すと、5人目のシュートは枠外となり日本は同点に追いつく。しかし6人目の中澤佑二がセーブされ、もう後がなくなったかに見えたが川口が再び奇跡的なセーブを見せる。そして7人目の宮本恒靖が決めると、ヨルダンの7人目のシュートはポストに阻まれ日本の勝利が決まった。 ▽アトランタ五輪ではこんなエピソードもあった。基本的に五輪を取材できるのは通信社、新聞社、テレビ局に限る。雑誌社はどうするかというと、雑誌協会に加盟している社が競技ごとに取材担当者を決め、雑協(雑誌協会)代表取材チームを作り、写真なら雑協の加盟社すべてが使えるシステムになっている。 ▽サッカーなら普段から撮り慣れている専門誌のカメラマンということになり、サッカーダイジェストが派遣することになった。もちろん1人しか取材枠はない。そしてブラジル戦後、多くの雑誌から「川口のプレー写真とアップの写真が欲しい」というリクエストが殺到した。 ▽代表幹事からその旨を伝えられたものの、川口を撮影するなら日本のゴール裏から撮影しなければならないこと、そうするとブラジル戦のような伊東輝悦のゴールは撮れないことを伝えると、代表幹事は迷ったものの、「日本のゴールシーンを優先しましょう。川口の撮影は難しいことを各社に伝えます」ということで、対戦相手のゴール裏で撮影を続けることになった。それほどブラジル戦での川口のプレーは強烈なインパクトを残した。 ▽それから5年後、ポーツマスに移籍した川口を取材するため02年2月15日にポーツマスの練習場を訪れた。久しぶりに会った川口は、レギュラーではないためインタビューは受けられないと断りつつ、「練習や試合で見たことを書くのは六川さんの自由なので、感じたことをそのまま書いて下さい」と取材の許可をもらった。 ▽練習後は彼の運転するクルマで海沿いのレストランで一緒に食事をした。体脂肪を考慮して食べるのはサラダと鶏肉が中心で、食後には現地のファンがサインをねだりに来た。川口が食事を終えるまで待っていたのだ。 ▽そして帰り際、川口は「まだ一人旅をしたことがないので、記者やカメラマンのようにデイパックを担いで出かけるのが夢です」と言った。 ▽日韓W杯前のキャンプで再会した川口に成果を聞いたところ、目を輝かせながら「ロンドンまで行ってきました」と楽しそうに話していた。選手生活の晩年は度重なるケガにも悩まされたが、その都度復活して現役生活にこだわった。4度のW杯出場と、アジアカップ連覇(2000年と04年)、さらにGKとして初の海外移籍を果たすなど、記録にも、記憶にも残る「魂の守護神」だった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.11.06 17:35 Tue
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