【六川亨の日本サッカーの歩み】浦和のACL優勝で思い出した古河優勝のスクープ2017.11.27 16:03 Mon

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▽浦和が10年ぶりにアジアの頂点に立った! ACL決勝でアル・ヒラル(サウジアラビア)との第1戦を1-1で引き分けた浦和は、11月25日のホーム第2戦で勝つかゴールレスで引き分ければ優勝という状況で、試合終了2分前に、第1戦に続いてラファエル・シルバが値千金の決勝点を奪取。2試合合計1勝1分けの堂々たる成績で2度目の優勝を果たし、12月7日から始まるクラブW杯では、アルジャジーラvsオークランドの勝者と9日に対戦し、勝てば準決勝でレアルと激突する。

▽このACLだが、2002-2003年シーズンにアジアクラブ選手権、アジアカップウィナーズカップ、アジアスーパーカップを統合し、アジアのチャンピオンを決める大会としてリニューアルされた。日本からは浦和とG大阪が過去に制しており、最多優勝は韓国クラブの5回。日本は今回の浦和の優勝で3回目となり単独2位に浮上した。

▽それ以前の前身であるアジアクラブ選手権では磐田、読売クラブ(現東京V)、古河(現ジェフ千葉)の3クラブがアジアの頂点に立っていることは以前にも紹介した。一方のアル・ヒラルは2年連続して古河と読売クラブの後塵を拝し、今回で3回目のランナーズアップと、なかなか勝てない。

▽浦和との対戦では、主力選手のブラジル人MFカルロス・エドゥアルドが第1戦で左足十字靭帯を傷め、第2戦でも宇賀神のチャージにエースストライカーのオマル・フリビンが負傷するなど運にも見離されたと言っていいだろう。

▽このアジアクラブ選手権で忘れられないのが1986年末に初優勝を遂げた古河だ。日本人プロ第1号の奥寺さんが西ドイツから凱旋帰国して古河に復帰すると同大会でも快進撃を続け、12月の決勝大会に進出。アジアクラブ選手権に出るためには天皇杯を欠場するしかない。過去にも現在も、天皇杯を棄権したのはこの時の古河しか記憶にない。

▽サウジアラビアで、リーグ戦形式で行われた86年の大会を取材するため現地を訪れたメディアは皆無だった。年末に遠く中東で行われた大会だけに、それも当然だった。にもかかわらず、サッカーダイジェストだけはモノクロのページながら写真つきでアル・ヒラル戦の模様を紹介した。

▽自費で取材に行った、わけではない。当時、古河のチームドクターを務めていた森本氏と、マッサーの妻木氏は、森ジャパンでもコンビを組んでいた。日本代表の取材を通じて知己となった両者は、カメラが趣味でもあった。そこで2人に、オフタイムや試合中にベンチから写真撮影をお願いすると、「可能だったら」という条件付きながら快諾してくれた。

▽新宿駅西口のバスターミナルが集合場所で、そこから成田空港に向かうため、モノクロフィルム10本ほどを手渡した。帰国後、元旦の天皇杯決勝の前に古河は優勝トロフィーを披露したが、そこで撮影済みのフィルムを受け取り、祈るような気持ちで現像のあがるのを待った。プロのカメラマンではないため望遠レンズにも限りがあり、アップのプレー写真こそなかったが、しっかり写っていた。こうして古河の優勝を誌面に反映できたのだった。

▽最後に、ACLの勝者が出場するクラブW杯は2019年まで現行のスタイルで開催されることが決まっているものの、FIFAは2020年以降を未定としつつ、2021年でコンフェデ杯を終了させ、クラブW杯と入れ替える計画だそうだ。4年に1回、6月開催で、当初は24チーム参加の大会を計画しているものの、どのように決定するかはまだ未定とのことだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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【六川亨の日本サッカーの歩み】高校選手権の隠れたドラマ。初めて大阪に優勝旗を持ち帰った監督

▽第96回全国高校サッカー選手権は、前橋育英の初優勝で幕を閉じた。流経大柏との決勝戦は、両チームとも高い集中力による好守が光り、1点を争う緊迫した試合だった。ただ、地力に勝る前橋育英はほとんどの時間帯でボールを支配し、決定的なシーンを何度も作っていただけに、優勝は順当な結果とも言える。 ▽今大会に限ったことではないが、年々全国の格差が縮まっていることを痛感させられた高校選手権でもあった。それは、過去に優勝経験のある清水桜が丘(旧清水商)、秋田商(はるか昔だが)、広島皆実、山梨学院の4校が姿を消し、2回戦でも星陵、滝川二、東福岡が敗退する波乱があった。 ▽そして日本文理や明秀日立、米子北が初のベスト8に進出し、上田西は長野県勢として初のベスト4に進出した。組み合わせに恵まれたとはいえ、米子北はプレミアリーグで揉まれているし、上田西には元横浜MのDFで、日本代表にも選出された鈴木正治氏のサッカースクール「シュートFC」の教え子がいるなど、確実にチーム力は上がっている。もはや高校選手権に“波乱”という言葉は当てはまらないのかもしれない。 ▽そんな高校選手権を取材して、「おや」と思ったことがあった。2回戦から登場した大阪桐蔭が、羽黒との試合で選手全員が喪章を巻いていた。その理由を試合後に永野監督は、恩師である元初芝高校監督の田中勝緒氏が昨年12月16日に75歳で亡くなったことを明かした。直接指導を受けたことはないものの、「いつも合宿や遠征では声をかけてくれた」そうで、昭和48年の高校選手権で同校が初優勝したDVDは、移動のバスのなかで選手に見せていたと言う。 ▽「おや」と思ったのは、永野監督が「最初に大阪に優勝旗を持ち帰られた監督」と話したことだった。高校選手権は1976年(昭和51年)から首都圏開催となって現在に至っているが、それまでは長居競技場や靱(うつぼ)球技場など大阪開催だったはず。なので「大阪に持ち帰る」という表現に違和感を覚えたのだった。 ▽そこで古い資料を探したところ、昭和48年当時は西宮球技場と神戸中央球技場がメイン会場として使用され、西宮球技場は関西において「フットボールのメッカ」だったことが分かった。両競技場とも所在地は兵庫県。隣県とはいえ、「最初に大阪に優勝旗を持ち帰った監督」というのは間違いではなかったのだ。 ▽高校選手権の黎明期は御影師範や神戸一中といった兵庫県勢が全盛期を迎えていた。そうれだけに、「最初に大阪に持ち帰った」という田中監督の偉業を大阪の指導者の方々は忘れずにいるのだろう。これも永い歴史を誇る高校選手権の、隠れたドラマの一つではないだろうか。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.09 07:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】親子で天皇杯制覇の偉業達成

▽第97回天皇杯の決勝が1月1日に埼玉スタジアム2002で行われ、C大阪としては初、前身のヤンマー時代を含めれば43大会ぶり4度目の優勝を果たした。天皇杯にまつわる昔話は先週も紹介したが、今回は珍記録が誕生したので振れておきたい。 ▽試合は柏との準決勝で負傷した扇原を欠きながらも、横浜FMが得意のカウンターで先制した。開始8分、下平のタテパスに伊藤が抜け出しGKとの1対1から冷静に流し込んだ。これに対しC大阪は後半20分、水沼のシュートのこぼれ球から、最後は山村が押し込んで同点に追いつく。その後は両者とも譲らず試合は延長戦に突入した。 ▽すると延長前半5分、山村の左クロスを水沼が頭で押し込んで決勝点を奪ったのだった。 ▽水沼と尹晶煥監督は鳥栖時代からの師弟関係にあり、尹晶煥監督が「水沼は僕のことを知り尽くしているので気をつける必要がある」と記者を笑わせながらも、「2017年の1年を順調にいけたのは水沼がいたおかげ。なぜなら僕の考えを選手に伝えてくれて、僕のできない仕事を陰でやってくれた」と感謝の言葉を述べた。 ▽水沼は2016シーズン、鳥栖から城福監督の誘いに応じてFC東京に移籍した。しかし右MFには阿部や河野、東らライバルが多く、なかなかレギュラーに定着できなかった。心機一転、尹晶煥がC大阪の監督に就任するタイミングで2017年にレンタル移籍すると、正確なクロスで攻撃陣をリード。その結果、ルヴァン杯に続き天皇杯と自身初となる2冠に輝いた。 ▽で珍記録というと、もうわかった読者もいるかもしれないが、今回の優勝で水沼宏太は“親子”で天皇杯を獲得したことになった。これまでも“兄弟”で天皇杯を制した例はある。1988年度の第68回大会で優勝した、横浜FMの前身である日産では、柱谷幸一と哲二の兄弟が天皇杯を獲得した。1996年度の第76回大会で優勝したV川崎(現東京V)では、三浦泰年とカズ(知良)の兄弟が天皇杯を制している。 ▽しかし“親子”となると、なかなかいない。恐らく97回の歴史を振り返っても初となる記録ではないだろうか。ちなみに父親である水沼貴史氏は、1993年度の第63回大会で初優勝を果たして以来、1992年度の第72回大会まで通算6度の天皇杯優勝に貢献している。これはこれで、凄い記録でもある。 ▽そして水沼貴史氏が初優勝した第63回大会で対戦した相手は、今回と同じヤンマーだったことにも因縁を感じてしまう。思い出深いのは、この試合が不世出のストライカーと言われた釜本氏のラストゲームでもあったことだ。釜本氏は監督兼任でチームを率いていたが、1982年に右アキレス腱を断裂。1983年11月に復帰したが、すでに39歳ということもあり、天皇杯で勝ち進むにつれ元旦で現役を引退することが濃厚だった。 ▽9年ぶり4度目の優勝を目指した釜本ヤンマーだったが、23歳の水沼貴史や22歳の柱谷幸一ら有望な新戦力を補強した日産に0-2と敗れタイトル獲得は果たせなかった。そのリベンジを34大会ぶりに水沼がC大阪で成し遂げた。対戦相手がジュニアユース時代から世話になり、17歳でプロデビューを飾った横浜FMということにも見えない糸を感じてならない天皇杯だった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.02 07:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】天皇杯こぼれ話

▽天皇杯の準決勝2試合が12月23日に行われ、延長戦の末にC大阪と横浜FMが元旦の決勝に駒を進めた。ベスト8が出揃った時点で作成された公式プログラムによると、C大阪は出場49回で3回の優勝、横浜FMは出場40回で7回の優勝とあるが、これには違和感を覚えるファンもいるだろう。 ▽今シーズンはルヴァン杯でC大阪が、J1リーグは川崎Fが初めて優勝を飾った。ところが天皇杯は、Jリーグ誕生以前の企業チーム時代の優勝回数がカウントされているため、C大阪は優勝3回となる。実際のところ、C大阪になってからは2001年と2003年に決勝へ進んだものの、いずれも清水と磐田の静岡勢に優勝を阻まれている。前身のヤンマーが天皇杯に優勝したのは1964年、1970年、1974年と遠い昔の出来事なので、優勝3回と紹介されてもピンとこない。 ▽同じことは横浜FMにも当てはまり、2013年に優勝しているが、1983年から1991年までの優勝5回は日産自動車、そして1992年は日産FC横浜マリノスというチーム名での優勝だった。来年の元旦決勝で優勝すれば、優勝回数は8となり、戦前、戦中、戦後に最多記録を作った慶應BRBと並ぶことになる。長い歴史を誇る天皇杯ならではのレコードだが、やはり違和感を覚えずにはいられない。 ▽そんな天皇杯で印象に残っているのが、5回目の優勝を果たした1991年の決勝だ。日産は1983年に初優勝を果たすと、1991年まで、9年間で戦後最多となる5回の優勝を達成しているが、残り3回は読売クラブが優勝し、あとの1回は松下電器といった具合に、当時は日産と読売クラブの2強が図抜けた強さを誇っていた。 <span class="split"></span> ▽9年間で決勝進出は日産が6回、読売クラブが4回と独占していたことからもわかるように、2強の黄金時代でもあった。そして決勝進出回数が9年間で10回となっているのは、1991年は両チームが初めて決勝で激突したからだった。2強にとって、まさに「絶対に負けられない戦い」だったが、思わぬ発言が日産の闘争心に火をつけた。 ▽テレビのスポーツニュースに武田修宏(現スポーツコメンテーター)とともに出演した藤吉信次(現東京Vトップチームのコーチ)は、ひょうきんなキャラクターが持ち味で、決勝の相手である日産を「おっさん自動車」と揶揄した。これが日産の選手を怒らせ、特に33歳のベテラン木村和司の激怒を買った。 ▽試合は日産がエバートンのゴールで先制したが、読売クラブも後半に武田のゴールで追いつき延長戦にもつれこんだ。そして延長前半14分、水沼貴史(現サッカー解説者。C大阪の水沼宏太は同氏の長男)の左クロスをレナトが競ってゴール前にこぼれるところ、木村が豪快な右足ボレーで決勝点を叩き込んだ。日産はその後もカウンターからルーキー山田隆裕とレナトが追加点を奪い、初の頂上決戦を4-1で制したのだった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.12.25 16:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】日韓戦で記録的な大敗

▽東アジアE-1選手権の最終日が12月16日に行われ、日本は韓国に1-4の惨敗を喫した。試合についてのレビューは木曜のコラムに譲るとして、今回は1-4というスコアにフォーカスしたい。 ▽日本が韓国にホームで4点も取られたのは今回が2回目だ。ライバルとはいえ通算成績ではいまだに韓国が41勝23分け14敗と圧倒的にリードしている。ただ、Jリーグ誕生後は日本の7勝10分け8敗と拮抗した成績を残し、2010年からは2勝3分けと7年間無敗を保ってきた。 ▽にもかかわらず1-4の惨敗。これは1954年3月のスイスW杯アジア予選で1-5と敗れて以来のホームでの大敗でもある。その一戦は、第2次世界大戦後、韓国が独立を取り戻して初めて行われた日韓戦でもあった。本来はホーム&アウェーで行われる予定だったが、韓国は北朝鮮との朝鮮戦争の内乱直後で政情も不安だったこともあり、李承晩大統領は日本チームの来韓を拒絶。このため2試合とも日本の明治神宮競技場で行われた。 <span class="split"></span> ▽初めての日韓戦は、日本が長沼健(元JFA最高顧問)のゴールで先制する。これが日韓戦の長い歴史におけるファーストゴールだった。しかしその後は韓国の猛攻に遭い、1-5で大敗。1週間後の第2戦は2-2で引き分けたため、韓国のW杯初出場が決まった。 ▽それから63年ぶりとなるホームでの大敗が、16日の東アジアE-1選手権での韓国戦だった。長い歴史のある日韓戦ではあるが、Jリーグ誕生以前も日本は押し込まれながらもスコア的には接戦を演じてきた。その原因の一つに、日本は優れたMFを輩出してきたのに対し、韓国は屈強なストライカーを産出してきた。にもかかわらず、決定機にシュートを上に外すなどミスが多かったことが指摘できる。 ▽ところが今回の対戦では、韓国はチャンスを確実に決めてきた。その象徴が2点目の鄭又榮(チョン・ウヨン)のFKだった。彼はJリーグの京都や神戸に在籍時代からミドルレンジのシュートを得意にしたとはいえ、ハリルホジッチ監督が「ワールドクラス」と評したほど鮮やかな一撃だった。無回転で右に曲がりながら落ちて、クロスバーすれすれに決まった。まさに攻撃は“ハマった”韓国と言える。その理由は木曜のコラムに譲るとして、日本にも大敗の原因はあった。 ▽日本が過去、韓国に4点を奪われたのはスイスW杯予選を除いて2回しかない。1954年後は1978年にマレーシアのクアラルンプールで開催されたムルデカ大会で0-4、翌79年にソウルで開催された第8回日韓定期戦(1-4)だ。 ▽当時の日本代表は、“暗黒の時代”でもあった。釜本らメキシコ五輪組が去り、新たなチーム作りに二宮監督(78年)や下村監督(79年)は腐心した。当時のメンバーはDF斉藤、落合、藤口の三菱勢を始め、攻撃陣は永井、碓井、西野ら、個々のタレントでは見劣りしないかもしれないが、チームとしての完成度は低かった。 ▽今回の日韓戦も、試合をしている選手自身がボールを持つと「次はどうしたらいいの」といった具合に迷いが感じられた。チームとしての完成度以前に、“チーム”になっていなかった。これでは勝負になるはずもない。そんな試合を東アジアE-1選手権で久しぶりに見た。 ▽過去の大敗は、日韓両国の実力差を如実に表していただけに、救いようがなかった。現実を受け止めるしかないと言える。しかし近年は拮抗した試合ができた。にもかかわらず今回は惨敗した。その理由として、日本は韓国以上に海外組に依存したチームであると同時に、国内組の突き上げ、レベルアップが停滞していると痛感せずにはいられない。 ▽歴史は繰り返すと言われるものの、これほど残念な試合はない。日本のサッカーが1970年代に逆戻りしたとは思いたくないが、日本代表の歴史に残す汚点でもあった。それを払拭するには、ロシアW杯での成功=ベスト16進出しかない。その反発力が、11月のヨーロッパ遠征からは妙に自チームに優しくなった指揮官にあるのかどうか。個人的にはその方が気になっている。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.12.18 12:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】石川直宏の引退試合に思うこと

▽先週末は慌ただしい日々が続いた。まず1日深夜、ロシアW杯の組分け抽選会があり、日本はコロンビア、セネガル、ポーランドとグループリーグを戦うことが決まった。第4シードということもあり、どこのグループに入っても苦戦は免れないものの、ベストではないがベターなグループだと思う。こちらについては、また別の機会に感想を書きたい。 ▽そして2日はJ1リーグの最終戦。川崎Fが大宮に5-0と大勝し、鹿島が磐田と引き分けたため、川崎Fのリーグ初優勝が決まった。これまでシルバーコレクターに甘んじていた川崎Fがタイトルを獲得したことで、ルヴァン杯を制したC大阪も含め、Jリーグには新しい風が吹いてきたことが予感される。 <span class="split"></span> ▽そして3日はJ1昇格プレーオフで名古屋が福岡と引き分け、1年でのJ1昇格を決めた。J3でも秋田が初優勝を飾り、2位の栃木がJ2復帰を果たすなど、全国各地で様々なドラマがあった。そうした中で、2日と3日はFC東京の石川直宏の引退試合を取材した。 ▽石川が横浜FMからFC東京に移籍したのは2002年のことだった。小学6年生の時に開幕したJリーグを国立で観戦し、「選手は何を考え、どんな思いでプレーしているのか知りたくなった」ことでプロのサッカー選手になることが夢になったという。その夢を叶えたものの、当時の横浜FMでは出番も限られていた。 ▽そんな石川に声を掛けたのが、2001年にアルゼンチンで開催されたワールドユースを視察した原博実だった。原はFC東京の監督に就任すると石川にオファーを出す。迷っている石川の背中を押したのが、チームメイトの松田直樹(故人)だった。「東京でいまのプレーを続けていたらチームの顔になれる。チームの象徴として戦うことができる」と言われたため、完全移籍を決断した。 ▽そして移籍した3日後の2002年4月27日、駒沢で行われたナビスコ杯初戦の清水戦で、44分にケリーのゴールをアシストする。 ▽それから16年、FC東京一筋にプレーを続けたが、右膝前十字靭帯、椎間板ヘルニア、左膝前十字靭帯と相次ぐ負傷に見舞われ、日常生活で階段の上り下りにも苦労する生活を強いられた。「朝、起きてみないと膝の状態はわからない」という毎日ながら、ここ2年間はリハビリの日々を続け、ようやく昨シーズン、J3の試合に2試合ほど交代出場できるまで復活した。 ▽そんな石川が現役引退を決断したのは今年の8月2日、奇しくも2年前のフランクフルト戦で左膝を負傷した日であり、奥さんの誕生日でもあった。引退試合はJ1最終節、12月2日のG大阪戦と、翌日のJ3C大阪戦。G大阪戦にはスタメンで出場し57分プレーした。不思議に「朝起きたら膝に痛みはなかった」と言う。そして「憧れのピッチにいるが、こんなに素晴しい、パワーのある場所とは知らなかった。全力でプレーできたことは誇りに思います」と、幼い頃からの夢を叶えてプロになれたことの感慨を口にした。 ▽さらに翌3日のC大阪戦では後半37分から試合に出場。対戦相手のリザーブには「負けたくない1人だったし、本当に嫌な相手だった。彼の良さはポテンシャルを感じたし、ずる賢さ、クレバーなところ。本当に嫌な相手だった」という、かつてのチームメイトの茂庭がいた。 ▽石川がピッチに入っても、C大阪ベンチに動きはない。するとFC東京のサポーターから「茂庭コール」が起こった。その雰囲気は、サッカー場といよりプロレス会場に近い。そして41分、茂庭がピッチに入った。 ▽試合は43分に石川の左CKからFC東京が追加点を奪い、これが決勝点となって2-1と有終の美を飾った。試合後のセレモニーで石川は、「駒沢のアシストで始まり、駒沢のアシストで終われた」と自身のサッカー人生を振り返った。これも何かの縁なのだろう。 ▽川崎Fの劇的な初優勝の陰で、1人のサッカー選手が注目を集めることなく引退したが、最後の勇姿を見られたことは幸せだった。駒沢には田中隼磨、塩田、権田、阿部らかつてのチームメイトや友人が駆けつけたことからも、石川の人柄を物語っていると言えよう。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.12.04 15:30 Mon
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