【六川亨の日本サッカーの歩み】ルヴァンカップ優勝から思い出されるC大阪・12年前の挫折
2017.11.06 12:30 Mon
▽2017年のルヴァン杯はC大阪対川崎Fという、どちらが勝っても初優勝という新鮮な顔合わせだった。試合は開始47秒にC大阪が左サイド丸橋のスローインを柿谷が頭でつなぐと、川崎Fのエドゥアルドがバウンドボールをクリアしようとしたが空振り。ボールは裏に抜け、フリーとなった杉本が右足で豪快に先制点を決めた。
▽その後は川崎Fがボールを支配して攻め続けたものの、ことごとくマテイ・ヨニッチに阻まれる。川崎Fの攻撃には“緩から急”への変化が見られなかったこともあり、C大阪のゴールを割ることができなかった。
▽すると後半アディショナルタム2分にカウンターから清武が右サイドを攻め上がり、水沼、ソウザとつなぐと、ソウザはGKチョン・ソンリョンもかわしてダメ押しの追加点を決めて勝利を確実なものにした。
▽試合後の会見で尹晶煥監督は「川崎Fといえば、17年前のことを思い出します。優勝を目の前にして逃してしまった、その記憶が僕に残っています。それを17年経って、今日やり返すことができたと思います。歴史というものは、こういうふうに結果が出て、歴史は書けると思っています。僕自身の歴史にも、新しい歴史が始まったと思います」と喜びを語った。
▽17年前の2000年J1リーグ・サントリーステージ、当時はC大阪の選手だった尹晶煥は、首位で最終節の川崎F戦を迎えたものの、延長戦の末に1-2で敗れてステージ優勝を逃し、2位に甘んじた。その時のことを、よく覚えていたなと感心せざるを得なかった。
▽優勝を逃したといえば、個人的に印象深いのが2005年のJ1リーグだ。この年のJ1リーグは1996年以来の1シーズン制に戻された。C大阪は開幕から神戸、横浜FM、大宮に3連敗で、早くも小林監督(現清水監督)の進退が囁かれた。第3節のアウェイ大宮戦を0-1で落とした後、たまたま取材していたので現役時代から親交のあった元日本代表選手で、当時はC大阪のGMを務めていた西村昭宏氏を元気づけるため、地元の鮨屋に誘った。
▽西村GMからは、「験直しのおかげでここまで来られました。最終戦は是非、取材に来て下さい」と電話を受けた。当時の状況は、首位のC大阪(勝点58)、2位のG大阪(同57)、3位から5位の鹿島、浦和、千葉(同56)まで5チームに優勝の可能性があった。最終戦の組み合わせはC大阪対FC東京、川崎F対G大阪、新潟対浦和、鹿島対柏、千葉対名古屋。近場の取材なら川崎F対G大阪を選択したいところだが、西村GMから電話があった以上、長居に取材に行かないわけにはいかない。
▽試合後の祝杯を約束して長居行きを決意した。
▽驚かされたのは、長居スタジアムの雰囲気だ。ビッグスタジアムは代表戦ではないにもかかわらず超満員。これほどC大阪ファン・サポーターがいたのかと思うほど、多くの観客で埋まっていた。
▽試合は前半が終わった時点で2-0とリードした浦和が得失点差で首位に立った。しかし後半、西澤のゴールで2-1と勝ち越したC大阪が再び首位に立つ。ところがタイムアップ直前の89分、CKからFC東京の今野が予想外のゴールで2-2のタイスコアに戻した。
▽結果は、川崎Fを4-2で下したG大阪がリーグ初優勝、2位は新潟を4-0で下した浦和、3位は柏を4-0で圧勝した鹿島、4位は名古屋を2-1でかわした千葉で、C大阪は2位の浦和や鹿島、千葉と同勝点ながら得失点差で一気に5位へと後退した。
▽試合後、選手を労う西村GMと話をする機会はなかった。ミックスゾーンで遠くから挨拶を交わして大阪を後にした。
▽あれから12年、J2陥落の危機を乗り越えて初めてのタイトルを獲得したことに感慨深いものがある。もちろん川崎Fの“悲劇”を見てきたこともあり、正直複雑な心境だ。川崎Fにはリーグ戦で頑張って欲しいと願わずにはいられない。
▽ルヴァン杯決勝を記者席で並んで取材したサッカージャーナリストの湯浅氏は、川崎Fの攻撃的なサッカーを評価しつつ、攻撃的なサッカーができるのに、リードしたら守備を固める鹿島のスタイルが日本のサッカーを停滞させていると批判していた。これも同感である。
▽C大阪も川崎Fも、様々な大会でランナーズアップに甘んじてきた。今回はC大阪が勝者になったものの、両チームとも新風を吹き込んでくれた今年のルヴァン杯。サッカーの楽しさを違うスタイルで表現した両チームには、リーグ戦でもさらなる目標があるだけに、再開後のJリーグに期待せずにはいられない。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
▽その後は川崎Fがボールを支配して攻め続けたものの、ことごとくマテイ・ヨニッチに阻まれる。川崎Fの攻撃には“緩から急”への変化が見られなかったこともあり、C大阪のゴールを割ることができなかった。
▽すると後半アディショナルタム2分にカウンターから清武が右サイドを攻め上がり、水沼、ソウザとつなぐと、ソウザはGKチョン・ソンリョンもかわしてダメ押しの追加点を決めて勝利を確実なものにした。
▽17年前の2000年J1リーグ・サントリーステージ、当時はC大阪の選手だった尹晶煥は、首位で最終節の川崎F戦を迎えたものの、延長戦の末に1-2で敗れてステージ優勝を逃し、2位に甘んじた。その時のことを、よく覚えていたなと感心せざるを得なかった。
▽優勝を逃したといえば、個人的に印象深いのが2005年のJ1リーグだ。この年のJ1リーグは1996年以来の1シーズン制に戻された。C大阪は開幕から神戸、横浜FM、大宮に3連敗で、早くも小林監督(現清水監督)の進退が囁かれた。第3節のアウェイ大宮戦を0-1で落とした後、たまたま取材していたので現役時代から親交のあった元日本代表選手で、当時はC大阪のGMを務めていた西村昭宏氏を元気づけるため、地元の鮨屋に誘った。
▽チームは浜松町のホテルに宿泊していたが、山手線の終電間近までサッカー談義に花を咲かせて元気づけた。するとチームは第4節から8試合負けなしで順位を上げ、第12節でG大阪に2-4と敗れたものの、その後も好調は続き、16試合無敗(当時。10勝6分け)のJ1新記録を更新するなど最終戦を残して首位に躍り出た。
▽西村GMからは、「験直しのおかげでここまで来られました。最終戦は是非、取材に来て下さい」と電話を受けた。当時の状況は、首位のC大阪(勝点58)、2位のG大阪(同57)、3位から5位の鹿島、浦和、千葉(同56)まで5チームに優勝の可能性があった。最終戦の組み合わせはC大阪対FC東京、川崎F対G大阪、新潟対浦和、鹿島対柏、千葉対名古屋。近場の取材なら川崎F対G大阪を選択したいところだが、西村GMから電話があった以上、長居に取材に行かないわけにはいかない。
▽試合後の祝杯を約束して長居行きを決意した。
▽驚かされたのは、長居スタジアムの雰囲気だ。ビッグスタジアムは代表戦ではないにもかかわらず超満員。これほどC大阪ファン・サポーターがいたのかと思うほど、多くの観客で埋まっていた。
▽試合は前半が終わった時点で2-0とリードした浦和が得失点差で首位に立った。しかし後半、西澤のゴールで2-1と勝ち越したC大阪が再び首位に立つ。ところがタイムアップ直前の89分、CKからFC東京の今野が予想外のゴールで2-2のタイスコアに戻した。
▽結果は、川崎Fを4-2で下したG大阪がリーグ初優勝、2位は新潟を4-0で下した浦和、3位は柏を4-0で圧勝した鹿島、4位は名古屋を2-1でかわした千葉で、C大阪は2位の浦和や鹿島、千葉と同勝点ながら得失点差で一気に5位へと後退した。
▽試合後、選手を労う西村GMと話をする機会はなかった。ミックスゾーンで遠くから挨拶を交わして大阪を後にした。
▽あれから12年、J2陥落の危機を乗り越えて初めてのタイトルを獲得したことに感慨深いものがある。もちろん川崎Fの“悲劇”を見てきたこともあり、正直複雑な心境だ。川崎Fにはリーグ戦で頑張って欲しいと願わずにはいられない。
▽ルヴァン杯決勝を記者席で並んで取材したサッカージャーナリストの湯浅氏は、川崎Fの攻撃的なサッカーを評価しつつ、攻撃的なサッカーができるのに、リードしたら守備を固める鹿島のスタイルが日本のサッカーを停滞させていると批判していた。これも同感である。
▽C大阪も川崎Fも、様々な大会でランナーズアップに甘んじてきた。今回はC大阪が勝者になったものの、両チームとも新風を吹き込んでくれた今年のルヴァン杯。サッカーの楽しさを違うスタイルで表現した両チームには、リーグ戦でもさらなる目標があるだけに、再開後のJリーグに期待せずにはいられない。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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