【六川亨の日本サッカー見聞録】差別的なフラッグで川崎Fは2試合の無観客試合か

2017.04.28 12:15 Fri
Getty Images
▽Jリーグは4月27日に第4回の理事会を開催し、今年7月にボルシア・ドルトムントとセビージャを招いて、浦和と鹿島が対戦する「明治安田生命Jリーグワールドチャレンジ2017」を開催することなどを発表した。浦和対ドルトムントが7月15日に埼玉スタジアムで、鹿島対セビージャが7月22日にカシマスタジアムで開催される。時間は未定ながら、夏場の試合のためナイトゲームが予想される。

▽そして今回の理事会で1時間半に及ぶ議論を費やしたのが、すでに新聞等でも報じられている、G大阪のサポーターが起こしたナチス親衛隊(SS)をイメージする旗を掲げたことと、ACLの水原戦で川崎Fのサポーターが旭日旗を掲げた件だった。
▽事件があったのは、4月16日に長居スタジアムで行われたC大阪対G大阪のダービーマッチだった。長居駅からG大阪のサポーターがSSを模した旗を掲げ、試合中もゴール裏で旗が揺れていた。G大阪の説明によると、試合中は認識できなかったものの、夜の19時過ぎにHPに問い合わせがあり、19日にはJリーグにもメールでの問い合わせがあったという。

▽事実を確認したG大阪の山内隆司社長は、4月21日の大宮戦からフラッグの掲出を控えるようサポーターに求め、その後は今シーズンの公式戦のすべてでフラッグ等の掲出を禁止。そしてSS旗を作成したサポーターグループの代表者と協議した結果、グループの解散と同グループに所属するサポーターを無期限で入場禁止の措置をとったことをJリーグに報告した。

▽今後、G大阪は応援に関するプロジェクトチームを作り、コンセプト、要項作りなどをクラブとサポーターでアイデアを出して共同で考える、定期的に意見交換して議論を進めるなどの対応策を取ることも報告。理事会では啓発をサッカー界が率先して行うとの意見で一致し、G大阪の考え方をJクラブで共有することになった。
▽今後はG大阪を処分するかしないかも含めてJリーグは検討するという。一方、予断を許さないのが川崎Fに対する処分である。Jリーグでは旭日旗の使用は「政治的、差別的な意図はないと認識している」(村井チェアマン)ものの、韓国では戦前の日本による侵略の象徴ととらえられている。このためJFA(日本サッカー協会)は、国際試合での使用について相手が不快に思う場合は自粛をお願いすることもあるそうだ。

▽こちらの件で難しいのは、ACLはAFC(アジアサッカー連盟)の主管試合であること。Jリーグが独自の判断や制裁を加えることはできず、昨日の段階でもAFCからJリーグには何の連絡もない。村井チェアマンによると、AFCが何らかの制裁を科す場合は、直接、川崎Fにコンタクトを取るか、JFAを通じての制裁になる可能性が高いらしい。

▽そして27日の午後、AFCは旭日旗を掲げた件で、規律倫理規則の第58条にある「差別禁止規定に抵触」するとして、川崎Fの処分を検討するとHPで発表した。AFCは倫理規定でスタジアムでの尊厳を傷つける差別や政治的な意見を禁止している。どのような処分になるかはAFCの規律委員会で協議されるが、最低2試合の無観客試合と1万5千ドル(約167万円)以上の罰金を科される可能性もある。

▽AFCが制裁を科せるのは、当事者の川崎Fと、場合によっては日本代表も含まれただけに、川崎Fへの処分を検討していることは、被害が日本代表に及ばずに済んだだけに、言葉は悪いが一安心といったところ。

▽ACLでは浦和と鹿島が好スタートを切っただけに、川崎Fのサポーターと、Jリーグでの出来事だがG大阪のサポーターが起こした、差別的ともとられかねないフラッグの掲出は残念だし、配慮を欠いた事件でもある。今回の一件を他山の石としてサポーターは共有するべきだろう。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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新理事会と残念だった西尾隆矢の報復/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は4月18日、宮本恒靖JFA新会長と新理事による最初の理事会(年度的には第6回)を開催した。既報のとおり技術委員長には影山雅永氏(JFAテクニカルダイレクター)が就任し、新たに各種部会が設置され、代表チームの強化を担当する技術委員会強化部会の部会長には山本昌邦氏(ナショナルチームダイレクター)が就任。ユース育成部会の部会長にはU-18日本代表監督で、解説者の城彰二氏の弟の城和憲氏が就任した。 理事会後の記者会見に臨んだ湯川和之専務理事は、かつては読売クラブの選手で、90年代初めにJFAへ転出。日本代表のマネジャーとしてチームに帯同し、日本の成長を見守ってきた。宮本会長とは97年のワールドユース(現U-20W杯)で選手とマネジャーという間柄。「今日はカジュアルな形での理事会が行われた」と変化を報告しつつ、「新理事にはサッカー界の説明をしました。今まで当り前のことが当り前にできない」と、半数近くが初めてJFAの理事になったことで、サッカー界の現状説明に時間を費やしたことも明かした。 また7月13日(土)には能登半島地震復興支援マッチとして、金沢のゴーゴーカレースタジアムでなでしこジャパンの壮行試合が開催されることも報告された。対戦相手やキックオフ時間などの詳細は未定となっている。 理事会の報告はここまでで、影山技術委員長はドーハへ行っていないとのことだが、U-23アジアカップの初戦、中国戦に関してはCB西尾隆矢のレッドカードに触れないわけにはいかないだろう。いくら相手に背後から身体をぶつけられたからといって、エルボーでの報復は問答無用で一発退場だ。ましてVARがあるのだから、どんな言い訳も通用しない。 大事な初戦、それも開始17分と早い時間帯での軽率なプレーは非難されても仕方がない。まして今大会のグループリーグは中2日の連戦だ。できればターンオーバーで戦いたかったところ、初戦から日本は総力戦による“緊急事態”に追い込まれた。本来ならDF陣のリーダーにならなければいけない西尾だけに、あまりに軽率なプレーは今後の起用にも影響するかもしれない。 森保一監督はカタールのアジアカップで失点を重ねながらもガマン強くGK鈴木彩艶を起用し続けた。果たして大岩剛監督は“汚名返上”の機会を西尾に与えるのかどうか。出場停止が何試合になるかわからないものの、こちらも注目である。 今回の西尾とは違うケースだが、04年に中国で開催されたアジアカップの準決勝、バーレーン戦で遠藤保仁が不運なレッドカードで退場処分になったことがある。パスを出して前線へ走り出した遠藤に、背後からバーレーンの選手が近寄ってきた。遠藤の振った腕が偶然にもバーレーン選手の顔に当たると、オーバーに倒れ込む。すると主審は遠藤にレッドカードを出したのだった。 当時はVARなどない。そしてカードが出てしまえば取り消しようがない。0-1とリード許し、さらに10人になった日本だが、中田浩二と中澤佑二、玉田圭司の2ゴールで4-3の大逆転を演じた。 当時もいまも、日本を相手にどうやったら少しでも有利な状況に持ち込めるか各国は必死に研究しているだろう。まずは挑発に乗らないこと。そして今回のケースでは、主審は見ていなくてもぶつかられたら西尾は倒れてもよかった。ただ、Jリーグでそうしたプレーは推奨されていないし、日本人のメンタリティーからしても相手を欺くようなプレーはやりにくい。 となれば、やはり相手の挑発には乗らないことと、球離れを早くしてフィジカルコンタクトを避けるのが、体力の温存やケガの予防につながるのではないだろうか。明日のUAEもどんな罠を仕掛けてくるのか、油断のならない相手であることは間違いないだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】中国戦で西尾隆矢が一発退場…</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="hszXHBrGzek";var video_start = 161;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2024.04.19 17:00 Fri

伝説の試合74年W杯決勝で残念だったこと/六川亨の日本サッカー見聞録

先週日曜日からNHK BSの『Jリーグタイム』の放送時間が変更された。そして『Jリーグタイム』の後に新番組、『FIFAワールドカップ伝説の試合ノーカット』という新番組がスタートした。過去のW杯の名勝負を4Kの高画質で再現した番組で、確かに画像は明るく鮮明で見やすかった。 記念すべき第1回は1974年西ドイツW杯決勝の西ドイツ対オランダ戦。“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーと“空飛ぶオランダ人”ヨハン・クライフの対戦でも注目を集めた試合だった。当時の記憶によると、すでにベッケンバウアーは西ドイツで“カイザー(皇帝)”というニックネームをつけられていたと思う。これに対しクライフは、西ドイツW杯2次リーグのブラジル戦で、左サイドのルート・クロルからのクロスを右足インサイドのジャンピングボレーで決めたことから“空飛ぶオランダ人”のニックネームがつけられたと記憶している。 番組はジョン・カビラ氏がMCを務め、ゲストには日本人プロ第1号の奥寺康彦氏、2011年女子W杯優勝メンバーでMVPと得点王を獲得した澤穂希氏、そして東京芸大学長でアーティストの日比野克彦氏が当時のサッカー界の思い出などを語った。 試合はゲスト解説に藤田俊哉氏と森岡隆三氏を迎えてスタートした。藤田氏は1971年生まれだが、当時はまだ3歳だったためライブでの記憶はないだろう。森岡氏は1975年生まれのため当然ながら覚えていない。 ミュンヘンの旧オリンピア・シュタディオンは7万人超の満員の観衆で埋まった。このスタジアムは1988年のEUROで訪れたが、陸上のトラックがある割にはスタンドの傾斜が急なため見やすいスタジアムだった。残念ながら地元の西ドイツは準決勝でオランダに敗れたため超満員とはいかなかった(試合はオランダがルート・フリットとマルコ=ファン・バステンのゴールでソ連を2-0と破って国際大会で初優勝)。 西ドイツ対オランダ戦に話を戻すと、74年はまだビデオデッキは普及していなかったため、決勝戦を録画することはできなかった。そこで後年、社会人になってからビデオデッキを購入した際に英国BBC製作の西ドイツ対オランダ戦のVHSビデオを入手した。 試合が始まってから、アナウンサーは数字をカウントするだけ。最初は意味がわからなかったが、それはキックオフからオランダがパスをつないだ本数だった。イングランドといえば1966年イングランドW杯決勝の因縁もあり西ドイツとはライバル関係というか、両国ともヨーロッパでは嫌われている印象が強い。このためBBCのアナウンサーは西ドイツをバカにしたのだろう。 オランダはキックオフからDFラインでパスをつなぎ、10本目のパスでクライフが自陣に下がりパス受けて出す。そして16本目のパスを再びクライフが受けるとドリブル突破を開始、マーカーのベルティ・フォクツを振り切りペナルティーエリアに侵入したところでウリー・ヘーネスに倒されPKを獲得した。 試合開始から西ドイツは一度もボールに触れることなくPKから失点。それをBBCのアナウンサーは強調したいため、あえてオランダのパスの本数をカウントしていたというわけだ。 藤田氏と森岡氏は当然知らなかっただろうが、できればNHKのスタッフにはPKの獲得に至る冒頭のシーンを紹介して欲しかった。そして当時のPKは左右の下か上のスミを狙うのがセオリーだったが、ヨハン・ニースケンスは真正面に強シュートを放った。いまでは多くの選手が試みているが、最初に目撃したのはニースケンスのこのシュートで、76年のEURO決勝、チェコスロバキア対西ドイツ戦でチェコスロバキアのアントニーン・パネンカのチップキックによるPK以来の衝撃だった(その後、チップキックによるPKをパネンカと呼ぶようになる)。 次回14日の放送カードは1986年メキシコW杯の準々決勝、フランス対ブラジル戦。この試合はメキシコ第2の都市グァダラハラのハリスコ・スタジアムで開催され、メキシコシティからオンボロのバスに揺られて取材に行った。グァダラハラはブラジルがグループリーグ3試合を戦ったことから多くのブラジル人ファン、サポーターが居残り(誰もが優勝を信じていたため)、さらに地元メキシコのファンもブラジルを応援していた。 記者席では、ベンチスタートのブラジルの背番号『10』がいつアップを開始するのか、試合を取材しながらもジーコの一挙手一投足から目を離せなかった。そして試合は、第1回目と同様にPKがカギを握ることになる。これ以上は番組をお楽しみにお待ちください。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.04.11 21:30 Thu

攻撃陣が楽しみなU-23日本代表/六川亨の日本サッカー見聞録

パリ五輪の出場権がかかるU-23アジアカップ2024に出場する日本代表23名が決定した。意外だったのは左SBのレギュラー候補と思っていたバングーナガンデ佳史扶が外れたことだ。当初はGKに鈴木彩艶が招集可能ということで、「1クラブ3名」という招集制限からFC東京は松木玖生、荒木遼太郎に加えて佳史扶で、GK野澤大志ブランドンが招集外になるかと予想していた。 しかしシント=トロイデンのトルステン・フィンク監督は鈴木の招集を拒否したことから、野澤がFC東京の「3人目の枠」として招集されたようだ。大岩剛監督も「人数制限だったり、悩みは大会で選手を選ぶ時には起こりえること」と選手招集の難しさをのぞかせれば、山本昌邦NTDは「何が正しいかわからないなか、ここまでたどり着いた。全クラブが合意に基づいて協力してくれた。そこは感謝しかないのでみんなの力を結集したい」とお礼の言葉を述べていた。 「3人枠」といえば、12年ロンドン五輪の際にC大阪にはU-23日本代表候補に清武弘嗣、山口蛍(現神戸)、扇原貴宏(現神戸)、杉本健勇(現大宮)の4人がいた。このままでは代表に選ばれるかどうか微妙なため、杉本は東京Vへ移籍することで「3人枠」を回避し、大迫勇也とのポジション争いに勝って代表の座をつかんだのは有名な話。4人ともレギュラーだったため選択できた決断だろう。 そして大岩監督や山本NTDは多くを語らなかったが、斉藤光毅(スパルタ)や鈴木唯人(ブレンビー)など、呼びたくても呼べなかった海外組がいたことも確かだろう。それでも攻撃陣は、FC東京への移籍でストライカーとして活躍することで代表入りを果たした荒木らJでもレギュラーで活躍している選手が多いだけに人材は豊富だ。 日中の気温は30度を超える厳しい環境で、グループリーグは中2日の3連戦となる。前線からの守備など消耗の激しいFW陣はターンオーバーでの戦いを余儀なくされるだろう。そこで、絶対に負けてはならない初戦の中国戦は細谷真大の1トップでカウンタースタイルから最低限でも勝点1を確保しつつ、1-0の僅差で逃げ切る戦い方で臨むことができる。 そして勝利が必要なUAE戦は、ポストプレーを得意としてフィジカルの強さが武器の藤尾翔太で厚みのある攻撃を仕掛けるのはどうだろう。状況によっては荒木との2トップでも面白い。そして第3戦の韓国戦は、グループAの1位と2位は地元カタールなのか、近年は安定した成績を残しているオーストラリアなのか、1位抜けと2位抜けのどちらがベターかを判断しながら戦うことができれば理想的だ。 そしてJ1リーグの第6節、FC東京が浦和戦で見せた荒木と松木の2トップは日本の秘策として残しておいてもいい。準々決勝を突破しても、次にはサウジアラビアやイラク、ウズベキスタンなどが控えていて、ここを突破しない限り五輪キップはつかめないだけに、攻撃の選択肢は多ければ多いほどいい。 不安は経験不足が否めないGKとCB陣だが、これはもう現メンバーで戦い抜くしかない。山本NTDもこの年代は21年のU-20W杯インドネシアが新型コロナウイルスの影響で中止となり、23年のアルゼンチン大会は1勝2敗でグループリーグ敗退と「世界大会の経験不足がある」ものの、これはこれから補っていくしかない。 16年のリオ五輪予選からホーム・アンド・アウェーではなくセントラルでの一発勝負という難しい大会になったが、カタールでは痺れるような経験を積みながら、パリへの出場権を獲得して欲しい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.04.04 21:30 Thu

宮本新会長誕生で『会長の決断』とは/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は3月23日、新会長に「内定」していた宮本恒靖氏を新たな理事による第5回理事会で、互選を経て第15代の会長に正式に就任したことを発表した。 この会見には22日に亀岡でのU-23日本対U-23マリを取材し、その足で24日のJ2リーグ山口対愛媛、25日に小倉でU-23日本対U-23ウクライナの取材を予定していて移動中だったため参加することができなかった。 ところが仕事仲間が当日、宮本会長の会見を取材した折り、机の上に昨年の会長選の際に作成した“マニュフェスト”があったため、余分に確保して親切にも郵送してくれた。 初めて目にしたマニュフェストの冒頭には「会長選の流れを決定づけた」と言われた岡田武史JFA副会長との対談が6ページにわたってあった。 対談の冒頭、岡田副会長は「代表監督選びについては技術委員会で候補者を選出して、最終的には会長と技術委員長を含めた数名で決めるんだけど、俺は最終的には会長がリーダーシップを発揮して決めなくてはいけないと考えている」と断言した。 その理由として「俺も代表監督時代から言ってはきたけど、技術委員長ではなくてやっぱり会長がやるべきことなんだよね」 「自分のサッカー観を持ったうえで決断するわけだから、(会長は)サッカーをしっかりと知っている人のほうが望ましいし、ツネなら言うまでもない」 元日本代表監督で現職の副会長にここまで言われては、会長選に立候補した鈴木徳昭氏の出番はないだろうと思った。鈴木氏は日本代表でもなければ、日産自動車に所属していた時でもJSLでのプレー経験はない。JFAとJリーグ、さらにW杯招致委員会、AFC、東京五輪招致委員会などで実務を担当してきた“裏方”だったからだ。 そして岡田副会長の「代表監督人事は会長」にも納得してしまった。 岡田監督は加茂周前監督からバトンタッチされ、“ジョホールバルの歓喜”で日本を初のW杯へ導いた。しかしフランスでは3連敗を喫したため、岡田監督の続投を求める声は皆無だった。99年にJ2札幌の監督に就任すると、2000年にはJ2優勝とJ1復帰を果たす。さらに03年からは横浜F・マリノスを率いてJ1リーグ連覇を達成するなど黄金時代を築いた。 そんな同氏が再び代表監督に就任したのが07年12月、イビチャ・オシム監督が脳梗塞で倒れたからだった。小野剛JFA技術委員長からの打診だったが、小野はフランスW杯でコーチに抜擢した旧知の仲だけに断ることはできなかっただろう。 こうして臨んだ南アW杯だったが、大会前にちょっとした“事件”があった。JFA会長に犬飼基昭が就任すると、技術委員長の強化担当に原博実を招聘。小野は「育成」の技術委員長と役職が変更になった。それでも小野は南アW杯前のスイス・オーストリアキャンプから岡田ジャパンを陰ながらサポートした。 南アW杯で岡田は日本人監督として初めてグループリーグを突破した。しかしラウンド16でパラグアイにPK戦の末に敗れた。中村俊輔の負傷が長引き、本田圭佑の0トップという大胆な発想も、岡田監督の評価にはつながらなかった。当時のサッカー界に、「監督は4年で代わるもの」という固定観念も少なくなかった。 岡田監督にしてみれば、早稲田大学の後輩であり、Jリーグでは監督としてこれといった実績のない原技術委員長に出処進退を決められるのは納得のできないことだったのではないだろうか。だから監督人事は「技術委員長ではなくてやっぱり会長がやるべきこと」と断言したと思えてならない。 この「会長が決断する」流れは田嶋幸三・前会長に受け継がれた。 JSLでのプレー経験こそあれ、Jリーグと代表での経験はないもののその実務手腕を見込んで原技術委員長が招いた霜田正浩(現松本監督)は、原がJFA専務理事に転出すると技術委員長に就任。しかし初めての会長選で原を破って会長に就任した田嶋は、原を2階級降格の理事にすることでJFAでの立場を失脚させる。 田嶋会長はロシアW杯を前に技術委員会を再編し、西野朗を技術委員長に招聘し、霜田をNTD(ナショナル・チーム・ダイレクター)に降格。霜田も自ら身を引くことになった。そしてW杯直前にはヴァイッド・ハリルホジッチ監督を解任し、西野を代表監督に据える人事を強行した。 22年カタールW杯で森保ジャパンはグループリーグでドイツとスペインを倒すジャイアントキリングを演じながらもベスト16でPK戦により散った。反町技術委員長は、一説には元チリ代表のビエルサ監督の招聘に乗り気だったという。しかし田嶋会長は大会直後にも森保続投を支持。森保監督と反町技術委員長との関係に配慮して、山本昌邦NTDを招聘したとの噂もある。そして反町技術委員長は3月を持って退任する予定だ。 代表監督人事は、最終的な決断は会長が下すのはどこの国も同じだろう。では技術委員会の役割は何なのか。これはこれで、はっきりさせておく必要がある。会長が「こう言ったから右に倣え」では、“忖度”であり技術委員会の存在意義そのものが問われかねない。 影山雅永技術委員長(男子)や佐々木則夫技術委員長(女子)などを理事職から外し、理事会のスリム化と女性理事の登用に積極的な宮本新会長。男女の代表戦の放映権の高騰により地上波で試合が見られないなど厳しい船出が待ち受けているかも知れないが、まずはパリ五輪男子の出場権獲得に万全の態勢で臨んで欲しい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.30 11:00 Sat

北朝鮮戦の扱いをAFCはFIFAに丸投げ/六川亨の日本サッカー見聞録

JFAは22日、3月26日に平壌で開催が予定されていた北中米W杯アジア2次予選の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)対日本戦が中止になったと発表した。これはAFCが「北朝鮮対日本の試合は予期せぬ事情により、予定通りには開催されない」という声明を受けてのもの。 そして、すでに3月20日の時点で北朝鮮サッカー連盟からは第三国での試合開催を要望していることも伝えられていたという。北朝鮮も北朝鮮なら、AFCもAFCである。なぜもっと早くその情報を開示しなかったのか。 日本は“海外組”が多いため、移動が選手の負担になることくらい知っているだろう。案の定、裁定・決断能力に欠けるAFCは今回の試合の顛末をどうするのか、判断をFIFAに“丸投げ”した。これではAFCの存在意義が問われても仕方ないだろう。果たしてFIFAはIMD以外の日程で再試合にするのか、それとも没収試合で日本の不戦勝を認めるのか。そして直前での入国禁止に対してホームゲームの開催権の剥奪など何らかのペナルティーが北朝鮮に課せられるのかどうか。 2006年ドイツW杯アジア最終予選では、イラン戦後に観衆が暴徒化して、ペナルティーとして日本戦は中立地タイ・バンコクのスパチャラサイ国際競技場で、無観客試合として行われた(無観客試合にもかかわらず、北朝鮮の関係者と家族が試合を観戦していた)。日本からもサポーターが駆けつけ、スタジアムの外から熱心な声援を送っていた。 FIFAは日本戦の扱いをどうするのか、その最終判断と、6月にシリアとミャンマーは北朝鮮に入国できるのかどうか。こちらも興味深いところである。 さて昨日はU-23日本対U-23マリの試合が京都の亀岡にあるサンガスタジアムで開催された。開始2分に平河悠のゴールで先制したまでは良かったが、15分を過ぎる頃からマリも日本の攻撃パターンに慣れたのか反撃を開始。日本のミスに乗じて前半で同点に追いつくと、後半も2ゴールを追加して日本を一蹴した。 両チームを比較して、顕著だったのがチームの完成度の違いだ。マリはアフリカ代表とはいえ、全選手が海外組で、多くの選手がフランスやスペイン、ポルトガル、イングランドなどヨーロッパでプレーしている。身体能力の高さに加え戦術的にも洗練されていた。 もうアジア最終予選は来月に迫っているため「今さら」だが、Jリーグで出場機会に恵まれない選手を週末に集め、大学勢やJFLのチームとテストマッチを組むなどして実戦経験の場を増やしておくべきだった。マリはもちろんパリ五輪出場を決めているウクライナとの試合も「いい経験」にはなるだろうし、選手の奮起と自覚を促すかもしれない。しかし試合が終われば所属チームに戻り、選手によっては以前と同じ環境に置かれるかもしれない。 個々の選手の才能は疑う余地はないものの、2月から4月に日程が変更されたことで、“海外組”の招集は難しくなった。今年のアジアカップの時は気温が下がり肌寒かったが、4月の予想気温は最低が25度、最高が35度と猛暑のなかでの消耗戦になる。 元々は23年夏に中国で開催予定だったアジアカップが24年1~2月にカタールで開催されることになったための変更だが、2月下旬から3月上旬にかけての開催なら問題ないだろう。カタールにも事情があったかもしれないが、これも「AFCは何も考えていない」としか思えない開催時期の変更である。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.23 22:15 Sat
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