昨季で現役を引退し矢島卓郎氏…11年間の現役生活を振り返り「最初に指導を受けたのが健太さんで良かった」
2017.01.27 18:00 Fri
▽昨シーズン限りで11年間に渡る現役生活を退いた矢島卓郎氏が、リーガ・エスパニョーラを放送するWOWOWで初の解説に臨んだ。
◆矢島卓郎氏
──11年間の現役生活お疲れ様でした。振り返っていただいでどのような11年間でしたか
「思うようにはいかなかったですが、改めて高校や大学の自分の経歴を考えると、プロになれるかどうかという意識でした。プロに入った時も何年できるか、10年以上できるとは自分でも思っていませんでした。最初の1年、2年が勝負だなという感じでした。そこからはもっと上に行きたいという思いがあったなかで、なかなかやりきれなかった部分があります。ただ、昔から考えると長くやらせてもらえたなという感じでした」
──清水エスパルスに入団し、川崎フロンターレ、横浜F・マリノス、そして京都サンガF.C.と11年間プレーされました。現役生活で最も印象に残っていることはなんでしょうか
「プロになりたいという思いは大学の頃からありましたが、いざプロになって自分の意識の低さやサッカーへの姿勢、普段の生活の部分など、凄く甘いんだなということを思い知らされました。(長谷川)健太さんに物凄く怒られて、やっと意識が変わったなという感じです。大卒で最初に指導を受けたのが健太さんで良かったなと思います」
「特別指定で行かせていただいたにも関わらず、大学を出るときに違うチームに行ってしまった僕に対して、オファーをくれました。移籍に関しては凄く悩んでいましたが、返事も長く待っていただいたりして、ありがたいなと思っていました。自分にとっては一番愛着のあるチームです。(在籍期間が)長かったという部分と、フロンターレの会社の人や選手の人がいろいろな点で思い出に残っています」
「フロンターレに入ったときもケガが多く、迷惑をかけたことも多かったですが、使ってもらっていました。マリノスではケガの影響もあってなかなか試合に出られなくなって、選手としては一番苦しい時期でした。ただ、すごく良い経験をさせてもらったというか、伝統のあるクラブでプレーできました。苦しんだこと、そして色々な選手とプレーできたことは良い経験でした」
──そして、現役最後に京都サンガF.C.でプレーされました。これまでとは大きく環境が変わったと思います
「半年ぐらいケガで休んだので、難しい部分はありました。環境の違いやカテゴリの違いは関係なく、みんながサッカー好きで、J1でもJ2でも毎日一生懸命トレーニングをして試合に向かうというのは当然一緒でした。京都は若い選手が多く、チームがJ1に上がれば選手自身ももっと成長できる環境があったのでJ1に上げられなかったことが残念です」
──川崎フロンターレで一緒にプレーしたMF山瀬功治(現アビスパ福岡)選手とは再び一緒にプレーすることになりました。馴染みやすかったとかはありましたか?若い選手も多いチームでしたが
「チームとしては今までで一番若かったです。僕が上から2番目とかだったので。それまでは先輩がもっと居る環境でやっていたので、20歳前後の選手が凄く多かったのと、ケガで練習できていない期間が長かったので、馴染むのが一番苦労したチームでした」
──現役時代は海外移籍の話が出た時期もありましたが、海外でのプレーなどを考えた時期はありましたか
「ありましたね。僕はオランダから話があったんですが、自分では考えたこともなかったです。ただ、話があるとなってから考えてみると、行きたいなという思いはありました。ただ、なかなか実現できなかったです。Jリーグでも外国人選手は良くも悪くもタイプが全然違っていたので、やっていて楽しかったので、周り全員が外国人選手だったら面白いんだろうなとは思っていました」
──体格やプレーを含め、日本人離れしたタイプのストライカーだったと思いますが、そういった点でも勝負したい思いがあったということでしょうか
「やってみたかったですし、若い時からもっと自分の特長を出せたりすれば良かったのかなとは思います」
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▽矢島氏は、1月8日に行われたアスレティック・ビルバオvsアラベスのゲスト解説を担当。自身初となる解説を前に、超ワールドサッカーでは矢島氏にインタビューを実施。11年間に渡る現役生活を振り返っていただいた。(インタビューは1月8日に実施)──11年間の現役生活お疲れ様でした。振り返っていただいでどのような11年間でしたか
「思うようにはいかなかったですが、改めて高校や大学の自分の経歴を考えると、プロになれるかどうかという意識でした。プロに入った時も何年できるか、10年以上できるとは自分でも思っていませんでした。最初の1年、2年が勝負だなという感じでした。そこからはもっと上に行きたいという思いがあったなかで、なかなかやりきれなかった部分があります。ただ、昔から考えると長くやらせてもらえたなという感じでした」
──清水エスパルスに入団し、川崎フロンターレ、横浜F・マリノス、そして京都サンガF.C.と11年間プレーされました。現役生活で最も印象に残っていることはなんでしょうか
「プロになりたいという思いは大学の頃からありましたが、いざプロになって自分の意識の低さやサッカーへの姿勢、普段の生活の部分など、凄く甘いんだなということを思い知らされました。(長谷川)健太さんに物凄く怒られて、やっと意識が変わったなという感じです。大卒で最初に指導を受けたのが健太さんで良かったなと思います」
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──その後、特別指定でも加入していた川崎フロンターレに移籍しました。移籍された当時の心境などは「特別指定で行かせていただいたにも関わらず、大学を出るときに違うチームに行ってしまった僕に対して、オファーをくれました。移籍に関しては凄く悩んでいましたが、返事も長く待っていただいたりして、ありがたいなと思っていました。自分にとっては一番愛着のあるチームです。(在籍期間が)長かったという部分と、フロンターレの会社の人や選手の人がいろいろな点で思い出に残っています」
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──横浜F・マリノスではケガが長引くなど苦しい時期を過ごされたと思います「フロンターレに入ったときもケガが多く、迷惑をかけたことも多かったですが、使ってもらっていました。マリノスではケガの影響もあってなかなか試合に出られなくなって、選手としては一番苦しい時期でした。ただ、すごく良い経験をさせてもらったというか、伝統のあるクラブでプレーできました。苦しんだこと、そして色々な選手とプレーできたことは良い経験でした」
──そして、現役最後に京都サンガF.C.でプレーされました。これまでとは大きく環境が変わったと思います
「半年ぐらいケガで休んだので、難しい部分はありました。環境の違いやカテゴリの違いは関係なく、みんながサッカー好きで、J1でもJ2でも毎日一生懸命トレーニングをして試合に向かうというのは当然一緒でした。京都は若い選手が多く、チームがJ1に上がれば選手自身ももっと成長できる環境があったのでJ1に上げられなかったことが残念です」
──川崎フロンターレで一緒にプレーしたMF山瀬功治(現アビスパ福岡)選手とは再び一緒にプレーすることになりました。馴染みやすかったとかはありましたか?若い選手も多いチームでしたが
「チームとしては今までで一番若かったです。僕が上から2番目とかだったので。それまでは先輩がもっと居る環境でやっていたので、20歳前後の選手が凄く多かったのと、ケガで練習できていない期間が長かったので、馴染むのが一番苦労したチームでした」
──現役時代は海外移籍の話が出た時期もありましたが、海外でのプレーなどを考えた時期はありましたか
「ありましたね。僕はオランダから話があったんですが、自分では考えたこともなかったです。ただ、話があるとなってから考えてみると、行きたいなという思いはありました。ただ、なかなか実現できなかったです。Jリーグでも外国人選手は良くも悪くもタイプが全然違っていたので、やっていて楽しかったので、周り全員が外国人選手だったら面白いんだろうなとは思っていました」
──体格やプレーを含め、日本人離れしたタイプのストライカーだったと思いますが、そういった点でも勝負したい思いがあったということでしょうか
「やってみたかったですし、若い時からもっと自分の特長を出せたりすれば良かったのかなとは思います」
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