【東本貢司のFCUK!】さらば真の英雄ロビー・キーン
2016.09.01 10:00 Thu
▽さすがは「イングランドのメディア」、しかもこの日はトランスファー・デッドラインデイ(移籍締切日)、新聞で言うならスポーツ欄の片隅に数行程度で扱うのも当然といえば当然・・・・が、ならば、このコラムでこそ“トップ”で取り上げるとしよう。「ロビー・キーン、代表引退試合をトレードマークのゴールを締めくくる!」思えば、アイルランド代表のシャツを身に着けた若き日のロビーを初めて観たのは、1998年W杯を目前にした頃の対アルゼンチン・フレンドリーだった。スコアは忘却の彼方。当時はまだ健在だったバティストゥータやオルテガがどうだったか、出場していたのかも記憶にない。しかし、確か当時弱冠18歳(あるいは17歳だったか?)のロビーが、ナンバー10を背負ったキャプテンだったことは鮮明に覚えている。以来、積み上げたゴールはこのオマーン戦でのラストメモリアルを含めて「68」。“西ドイツ”の英雄ゲルト・ミュラーと同じ数字である。
▽ロビーには個人的に思い入れがある。それなりの“縁”もある。そのアルゼンチン戦終了後のポストマッチ・インタヴューの聞き取り翻訳、一年半後の鮮烈なプレミアデビュー戦(99年夏にウルヴズからコヴェントリーに移籍)の実況解説。同試合、ロビーは独壇場の2ゴールをゲットして新チームに勝利をもたらした。98-99シーズンのFAカップ戦でも彼が率いるウルヴズのゲーム実況解説の“栄誉”に与っている。さらに、鹿島で行われた日韓W杯グループリーグ・対ドイツの劇的な同点ゴールも目の当たりにした。筆者にとって、ロビー・キーンはベッカム、オーウェンに匹敵する“プライムタイム・ヒーロー”なのだ。先のユーロでは、招集されながらもほんのわずかな“顔見せ交代出場”に終わり、密かに心を痛めていた。引退は近い、彼の時代は幕を閉じようとしている・・・・。「誰もがぼくのゴールを待ち望んでくれていた。それに応えられて嬉しい。今後はいちファンとして(アイルランド代表の)ゲームを楽しみに見続けたいと思う」――お疲れさまでした!
▽先輩ロイ・キーンの代表退場がいかにも後味の悪い顛末に終わったことを思えば、ストライカーとしての華も含め、ロビーには「永遠のアイリッシュヒーロー」としてのイメージがこれからも消えることはないだろう。現代表監督マーティン・オニールも「文句なしにアイルランド史上最高のプレーヤーの一人。彼がいなくなった穴を埋めるのは至難というしかない」と最後の挨拶を送っている。ちなみにロビー(とミュラー)の代表ゴール記録は歴代4位に当たる。トップは伝説のマイティーマジャール、フェレンツ・プスカシュ(83)、2位はその同僚、サーンドール・コッシシュ(75)、続いてドイツのミロスロフ・クローゼ(71)。プスカシュの記録は公式代表マッチ84、コッシシュに至ってはなんと68試合で達成されている。決して同レベルでは語れないとしても、想像を絶する決定率だ。いかに当時のハンガリー代表、およびホンヴェドが桁外れのチームだったかが偲ばれる。なお、ホンヴェドでの記録はプスカシュが341試合352得点、コッシシュは145試合153得点!
▽昔話ばかりで恐縮だが、つい思い出したことがある。後にチャンピオンズカップ(同リーグの前身)発足のきっかけを作った有名な事件―――当時問答無用の最強を自他共に許すイングランドの当時のチャンピオン、ウルヴズが、プスカシュらのホンヴェドに歴史的な大敗を喫したゲームだ。そう、ロビー・キーンのまさにそのウルヴズ・アカデミー出身なのであり、プロデビューも同クラブで果たしているが、それが1997年。おわかりだろうか、ロビーはプロになった翌年に代表入りし、しかも間もなく同キャプテンに指名されたのである。かのアルゼンチン戦当時、筆者はそんなことも露知らず、ただ「10代の代表キャプテン」という快挙だけを快哉していた。直感的に「この男は並みのプレーヤーじゃない」と認めながら、同世代で姿格好やプレースタイルが似ていたマイクル・オーウェン、ジョー・コールと“同列”に取りざたしていたのだ。今ならこう言おうか。オーウェンもコールも突出した存在に違いなかったが、ロビーにはさすがに少々引けを取るかな、と。
▽さて、2016年8月デッドラインデイの最大のサプライズは、ダヴィド・ルイスのチェルシー帰還だった。それもまさに締め切り寸前の31日23時過ぎに移籍契約が認定されたというドラマティックな“結末”。どうやら、アントニオ・コンテはマジで一年目にグアルディオラとモウリーニョにケンカを売るつもりらしい。もう一つ、こちらは現地からの情報がかなり錯綜、混乱したきらいもあったが、降格したニューカッスルのムーサ・シソコがデッドライン時ぎりぎりでスパーズに入団決定。一時は、マグパイズ(ニューカッスル)の要求額3千万ポンドを先に了承したエヴァートンに決まるかと思われたのだが、最後の最後でエヴァートンが断念して決着した。シソコがメディカルを受けるためにリヴァプールへ出発する直前の大逆転劇だったようだ。なお、ルイスの移籍についてはパリSGが強硬に難色を示していたが、ルイスの「チェルシー恋し」に結局は匙を投げた模様。プレミアのタイトル争いはますます混沌とし、かつ激烈な主導権争いが繰り広げられそうだ。
【東本 貢司(ひがしもと こうじ)】 1953年大阪府生まれ 青春期をイングランド、バースのパブリックスクールで送る。作家、翻訳家、コメンテイター。勝ち負け度外視、ひたすらフットボール(と音楽とミステリー)への熱いハートにこだわる。
▽ロビーには個人的に思い入れがある。それなりの“縁”もある。そのアルゼンチン戦終了後のポストマッチ・インタヴューの聞き取り翻訳、一年半後の鮮烈なプレミアデビュー戦(99年夏にウルヴズからコヴェントリーに移籍)の実況解説。同試合、ロビーは独壇場の2ゴールをゲットして新チームに勝利をもたらした。98-99シーズンのFAカップ戦でも彼が率いるウルヴズのゲーム実況解説の“栄誉”に与っている。さらに、鹿島で行われた日韓W杯グループリーグ・対ドイツの劇的な同点ゴールも目の当たりにした。筆者にとって、ロビー・キーンはベッカム、オーウェンに匹敵する“プライムタイム・ヒーロー”なのだ。先のユーロでは、招集されながらもほんのわずかな“顔見せ交代出場”に終わり、密かに心を痛めていた。引退は近い、彼の時代は幕を閉じようとしている・・・・。「誰もがぼくのゴールを待ち望んでくれていた。それに応えられて嬉しい。今後はいちファンとして(アイルランド代表の)ゲームを楽しみに見続けたいと思う」――お疲れさまでした!
▽昔話ばかりで恐縮だが、つい思い出したことがある。後にチャンピオンズカップ(同リーグの前身)発足のきっかけを作った有名な事件―――当時問答無用の最強を自他共に許すイングランドの当時のチャンピオン、ウルヴズが、プスカシュらのホンヴェドに歴史的な大敗を喫したゲームだ。そう、ロビー・キーンのまさにそのウルヴズ・アカデミー出身なのであり、プロデビューも同クラブで果たしているが、それが1997年。おわかりだろうか、ロビーはプロになった翌年に代表入りし、しかも間もなく同キャプテンに指名されたのである。かのアルゼンチン戦当時、筆者はそんなことも露知らず、ただ「10代の代表キャプテン」という快挙だけを快哉していた。直感的に「この男は並みのプレーヤーじゃない」と認めながら、同世代で姿格好やプレースタイルが似ていたマイクル・オーウェン、ジョー・コールと“同列”に取りざたしていたのだ。今ならこう言おうか。オーウェンもコールも突出した存在に違いなかったが、ロビーにはさすがに少々引けを取るかな、と。
▽さて、2016年8月デッドラインデイの最大のサプライズは、ダヴィド・ルイスのチェルシー帰還だった。それもまさに締め切り寸前の31日23時過ぎに移籍契約が認定されたというドラマティックな“結末”。どうやら、アントニオ・コンテはマジで一年目にグアルディオラとモウリーニョにケンカを売るつもりらしい。もう一つ、こちらは現地からの情報がかなり錯綜、混乱したきらいもあったが、降格したニューカッスルのムーサ・シソコがデッドライン時ぎりぎりでスパーズに入団決定。一時は、マグパイズ(ニューカッスル)の要求額3千万ポンドを先に了承したエヴァートンに決まるかと思われたのだが、最後の最後でエヴァートンが断念して決着した。シソコがメディカルを受けるためにリヴァプールへ出発する直前の大逆転劇だったようだ。なお、ルイスの移籍についてはパリSGが強硬に難色を示していたが、ルイスの「チェルシー恋し」に結局は匙を投げた模様。プレミアのタイトル争いはますます混沌とし、かつ激烈な主導権争いが繰り広げられそうだ。
【東本 貢司(ひがしもと こうじ)】 1953年大阪府生まれ 青春期をイングランド、バースのパブリックスクールで送る。作家、翻訳家、コメンテイター。勝ち負け度外視、ひたすらフットボール(と音楽とミステリー)への熱いハートにこだわる。
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