【日本サッカー見聞録】久保の招集を断念。当てにならない約束より現実的な判断を歓迎
2016.08.04 00:05 Thu
▽4日に開幕するリオ五輪男子サッカーで、マナウスで調整中のU-23日本代表の手倉森監督は現地時間2日20時30分過ぎに、FW久保(ヤングボーイズ)の招集を断念し、バックアップメンバーからFW鈴木を18名に登録することを明らかにした。鈴木の代わりにはFWオナイウ阿道を追加招集する。
▽ヤングボーイズのGMと日本サッカー協会(JFA)との交渉は、最後まで平行線を辿った。当初はチームのFWが負傷したため久保の招集を拒否したヤングボーイズだったものの、急きょ霜田NTDが現地入りして交渉した結果、3日のCL(チャンピオンズリーグ)予備戦後は久保の招集に柔軟な姿勢を見せた。
▽日本サイドとしては、4日のナイジェリア戦は物理的に間に合わないものの、3日のCL戦後にスイスを発ちマナウスに向かえば、4日の試合中には合流できる可能性が出てきた。このため3日の試合後は必ず久保をリリースして飛行機に乗せることの確約を求めた。選手を入れ替えるタイムリミットをFIFA(国際サッカー連盟)とIOC(国際オリンピック委員会)に確認したところ、2日に手続きをしないと間に合わないことが判明したからだ。選手を入れ替えない場合、初戦は久保が不在となるが、第2戦以降の主力として期待できる。
▽そこで2日昼過ぎに最終決断を下すとして粘り強く交渉したものの、ヤングボーイズの結論は「3日の試合が終わらないと久保を出せるかどうかの判断はできない」というものだった。3日以降では選手の入れ替えができないため、もしも3日の試合後にノーという返事が来たら、日本は17名の選手で五輪に臨まなければならない。ヤングボーイズが3日の試合後に久保をマナウスに向かわせるという確約が得られない以上、久保の招集を断念せざるを得ない苦渋の決断を手倉森監督は下した。
▽手倉森監督は「縁というのは良いバランスがあってこそ結ばれるもの。自分が、彼は海外組であり、この世代のエースと思い過ぎたことで縁がなくなってしまったのかな」と自戒を込めて久保の離脱を残念がった。そして18名の登録枠に滑り込んだ鈴木は「久保の思いを考えると、あいつの分もやらないといけない。複雑な気持ちでもあるが、せっかく来たチャンスなのでモノにしたい」と、久保を気遣いながらも意欲を見せていた。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
▽ヤングボーイズのGMと日本サッカー協会(JFA)との交渉は、最後まで平行線を辿った。当初はチームのFWが負傷したため久保の招集を拒否したヤングボーイズだったものの、急きょ霜田NTDが現地入りして交渉した結果、3日のCL(チャンピオンズリーグ)予備戦後は久保の招集に柔軟な姿勢を見せた。
▽そこで2日昼過ぎに最終決断を下すとして粘り強く交渉したものの、ヤングボーイズの結論は「3日の試合が終わらないと久保を出せるかどうかの判断はできない」というものだった。3日以降では選手の入れ替えができないため、もしも3日の試合後にノーという返事が来たら、日本は17名の選手で五輪に臨まなければならない。ヤングボーイズが3日の試合後に久保をマナウスに向かわせるという確約が得られない以上、久保の招集を断念せざるを得ない苦渋の決断を手倉森監督は下した。
▽手倉森監督は「縁というのは良いバランスがあってこそ結ばれるもの。自分が、彼は海外組であり、この世代のエースと思い過ぎたことで縁がなくなってしまったのかな」と自戒を込めて久保の離脱を残念がった。そして18名の登録枠に滑り込んだ鈴木は「久保の思いを考えると、あいつの分もやらないといけない。複雑な気持ちでもあるが、せっかく来たチャンスなのでモノにしたい」と、久保を気遣いながらも意欲を見せていた。
▽正直なところ、今回の決断は正解だったと思う。それというのも、例え「3日の試合後は久保をリリースする」とヤングボーイズが確約しても、その約束にどこまで拘束力があるのか不明だからだ。「やっぱり出せない」とか「ケガをしたので出せない」と言われたら、それまでのような気がする。当てにならない約束なら、現実的な判断をした方が被害も少なくてすむ。久保にはロシアW杯や東京五輪のOA枠を目指してもらい、チャンスをもらった鈴木にはマナウスで爆発して欲しい。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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