★クラマー氏を招聘した大英断
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▽先週の出来事だが、「日本サッカーの父」と慕われたドイツ人のデットマール・クラマー氏が他界した。1960年に日本代表の特別コーチとしては初来日すると、選手と寝食と共にしてサッカーの基礎から指導。“早く”“正確に”というのは、いかにもドイツ人らしい指導方法だった。

▽クラマー氏が指導として優れていたのは、キック、トラップなど技術が正確なため手本を見せて選手を説得できたこと。当時のVTRを見ても、リフティングなどは選手より上手かった。それと同時に、来日前に、新渡戸稲造著の「武士道」を読むなど日本の文化を研究し、選手には「ヤマトダマシイ(大和魂)を持て」とメンタル面の重要性も説いた。

▽彼の指導が1964年東京五輪のベスト8、さらに4年後のメキシコ五輪で銅メダルにつながったことは周知の通り。訃報に際しても多くのメディアがクラマー氏の功績を讃えていたので目を通した読者も多いことだろう。そこで今回は、クラマー氏を招聘した人物にスポットを当てたい。クラマーさんというか、ドイツ人コーチの招聘を強引に決めたのが第4代JFA(日本サッカー協会)会長の野津謙(のず ゆずる)だった。

▽野津は東京帝国大学(現東京大学)医学部出身で、ハーバード大学にも留学した正真正銘の“ドクター”だ。大学時代は現在の関東大学リーグの前身となる大会の創設に尽力。1928年アムステルダム五輪の選手団役員として現地入りした時は、当時アムステルダムにあったFIFA(国際サッカー連盟)を訪れて日本の加盟を申請したのも野津だった。

▽第2次世界大戦後の1955年にJFA会長に就任すると、76年まで21年間に渡って会長の座を務めた。その間にはAFC(アジアサッカー連盟)副会長として、アジアユース選手権の開催を提案したり、日本代表をヨーロッパへ長期遠征させたりするなど様々な改革を実施した。その1つがドイツ人コーチの招聘だった。

▽64年の東京五輪を控え、強化は急務だった。しかし、60年ローマ五輪は極東予選で韓国に敗れてしまう。外国人コーチの招聘は避けて通れない道だったが、どこから呼ぶか。サッカーの母国イングランドやサッカー王国ブラジルを推す声もあったという。そうした声を一蹴して、野津は単身西ドイツ(当時)に渡り、ゼップ・ヘルベルガー監督(1954年スイスW杯優勝監督)にコーチの派遣を要請した。

▽野津がドイツを選択したのは、医者であるためドイツ語が堪能であったことと、それに関連してカントやヘーゲルなどドイツ人哲学者も好き――要はドイツ贔屓だったようだ。野津の要請を受け、ヘルベルガーは自身のアシスタントコーチを務めていたクラマー氏とウド・ラテック(後にバイエルンの監督としてリーガ3連覇や欧州3大カップ制覇)のどちらを日本へ派遣するか悩んだものの、最終的にクラマー氏に白羽の矢を立てた。

▽その後の経緯は皆さんもご存じの通り。最後にもう1つ、野津の大英断を紹介しておこう。62年に入り野津は若き長沼健を代表監督に、岡野俊一郎をコーチに抜擢した。彼らとクラマー氏のトリオ誕生が東京、そしてメキシコの成功につながったとも言える。

【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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